時の法令1530号, 68-77,1996年9月30日発行
民主化の法理=医療の場合 27


終末期の苦痛に対するセデーション(鎮静)の在り方

星野一正


まえがき

末期癌の患者の痛みは特に激痛の場合が多く、その上、耐えられないほどのだるさ(倦怠感)や腹部の膨満感、吐き気、嘔吐、息苦しさなど痛みとは異なる苦痛で苦しむことも多い。このような疼痛や苦痛の治療は、癌そのものの治療ではないので、疾患の治療を主目的として疾患の治療にかまけている医師や看護婦には、痛みや苦しさを訴える患者の声は、届きかねることもままあるのが現実である。患者が痛みを訴えても「ちょっと我慢して下さいね」と忙しそうに立ち去ってしまい、待っていても何もしてくれない。しつこく訴えると「じゃ鎮痛剤をあげますね。だけどあまり鎮痛剤をのむと食欲がなくなったりして、身体にはよくないから、できるだけ我慢して下さいね」とお説教をされかねない。患者は、どのような鎮痛療法があるのか知らないので、「そういうものか。我慢するしかないのか」とあきらめがちである。

それに反して、ホスピスや緩和ケアでは、患者からまず疼痛を除いてあげる努力をし、そのためには通常十分な鎮痛療法を実施するので^痛みを患者に我慢させるという発想はない建前で運営をしている。

鎮痛療法として効果がある方法として、世界保健機関(WHO)が一九八六年に提唱したCancer Painによる「WHO方式癌疼痛治療法」が有名であり、諸外国ではよく使われて.いるが、どうしてか、わが国ではホスピスや緩和ケア以外ではあまり効果があがっていないようである。

しかし、「WHO方式癌疼痛治療法」を慎重に支持どおりに使用すれぱ、従来信じられていたような危険ややっかいな副作用も起こさずに鎮痛効果をあげることができるのであるが、わが国では、いまだにモルヒネ恐怖をもつ医療関係者が多いという。モルヒネ恐怖には、モルヒネは麻薬であり、麻薬中毒になる、呼吸困難や循環不全を起こして急性中毒で死亡させる、痰が出にくくなって窒息死する、服薬を中止すると禁断現象で苦しむ、廃人になる、などが挙げられるが、近代的なモルヒネの薬理学ならびに適切な使用法を学ぶことによって、モルヒネを主とした正しい鎮痛治療法を理解することができるはずである。

効果的な鎮痛療法や対症療法を含むあらゆる手段を尽くしても末期癌で苦しんでいる患者には、医師が種々の鎮痛剤や強さの異なる睡眠剤を使い分けて、鎮痛(セデーション)により患者を苦痛から救う方法がある。

①患者の疼痛・苦痛・苦悩について

〔疼痛〕肉体的な痛みに苦しむ患者の多くは鎮痛療法により痛みがほとんど除去あるいは軽減できる。しかし、末期がんの激痛を訴える患者の少なくとも一〇%の患者では「WHO方式癌疼痛治療法」を駆使しても除去できないと報告されている。その上、末期がんで痩せて骨ばってきたところにできた褥創(とこずれ)の痛みには耐えられない場合が多い。

〔痛みとは異なる身体的な苦痛〕たとえ、鎮痛ができた場合でも、痛みとは異なる身体的な苦しさを患者が訴えることが多い。たとえば、全身倦怠感があるとか下肢(あし)がだるくて置き場所がなく痛くはないけれど耐えられない苦痛がある、おなかが張って(腹部膨満感)苦しい、吐き気が続きよく嘔吐して苦しいだけでなく力が抜けて生きているのすら辛い、息苦しい(ひどくなると呼吸困難)などの身体的な苦痛もある。それぞれの症状に対する対症療法で症状は軽くはなっても、げそっと体力が落ちて衰弱した患者が横になっているだけでも辛いという苦しさは取りきれるものではない。

〔セデーション(鎮痛)による救い〕医療では取りきれない褥創の痛みや、痛みではない身体的苦痛から開放されるのは、鎮痛剤や睡眠薬で眠っている間だけと言わざるを得ない状態になることも多い。

あらゆる対症療法をしても末期癌で苦しんでいる患者には、医師にセデーションをして苦痛から救って欲しいと要請する場合が確かにある。その反面、苦しんでいる患者を見兼ねて、家族と相談の上で、セデーションをする場合もある。しかし、セデーションを実施する医師や家族など世話をする人たちの自己満足に終わらないためには、患者本人の強い要請に基づいて実施するのでなければならない。

たとえ患者本人の強い要請に基づいている場合でも、セデーションで眠りについた患者が覚醒することなくそのまま死んでしまわないように、毎回、薬剤の投与量を患者ごとに慎重に決定しなければならない。

〔精神的苦痛・霊的苦痛〕終末期に死を意識した患者の不安や恐れ、孤独感、苛立ちなどの精神的苦痛のために鬱状態に落ち込むこともあり、自分のしてきた仕事から離れた職業上あるいは社会的な立場での不安、経済的問題や他人には言えない家庭内の悩みや、ざんさ自分の過去を顧みて慙愧に堪えない思い出や後悔に苦しみ、輝かしい過去の栄光も影を潜めてしまい、患者には常に脳裏を離れない苦労や苦しみがあるものである。

その一方、「なぜ私がこんな目にあわなければならないのだろうか」など、文句を言う相手の見つからない不満や苛立ちとあきらめの交錯した苦悩、しかも信じる宗教もない多くの日本人の落ち込んだ悩みなどの精神的あるいは霊的な苦悩もある。痛みや苦痛とは本質的に異なるこれらの苦悩に悶える患者もいることを忘れてはならない。

カウンセリングや精神的あるいは宗教的な支援によって、第三者がこのような患者の個人的な精神的苦痛や霊的苦痛(apiritual pain)を解決してあげられるものであろうか。自分自身の苦悩だから、患者は、かえって自分では解決できないのであろうか。とはいえ、患者本人ですら解決できない精神的苦痛や霊的苦痛を、第三者が患者の身になって理解して、薬物などを使わずに、解消してあげられるのであろうか。もしそのような人がいたら、その人は自分の悩みはすべて解消して、悩みのない人生を過ごしているのであろうか。精神的なケアをする人自身の価値観に基づいて、患者の悩みを解消してあげていると思っているだけではないであろうか。あるいは、信じ込ませて患者の思想や人格を改造するのであろうか。信じ込む心のない患者には、どのような救いの道が残されているのであろうか。

〔自己の尊厳の侵害、人格の崩壊に苦しむ人生最後の苦悩〕効果的な鎮痛療法とセデーションの治療中には苦痛を意識しなくなっても、目が覚めれば、忘れたくとも忘れられない心の痛みを感じる人もいることは否定できないであろう。

病気によって、だれかの世話を受けなければ食べることも動くことも洗面したり着替えすることもできず、排泄、のためにオムツの交換から入浴の世話まで、何から何まで世話にならなければ生きていけない恥ずかしい惨めな毎日を過ごさざるを得ず、自分が大切に守り続けてきた自尊心に支えられた自己の尊厳が病気のために蝕まれ侵害されていくのを自覚する辛さ、`医学医療の粋を尽くしても侵害を止めて現状より良くなる可能性もなく、自己の尊厳の侵害あるいは人格の崩壊がすでに起こっている恐ろしざ、屈辱感、恥ずかしさ、惨めさなどの苦悩にさいなまれる患者を、だれが救えるのであろうか。救える人がいるとしたら、どのような方法で、このような患者を苦悩から救ってあげるのであろうか。

わが国では、自己の尊厳の侵害あるいは人格の崩壊のような理由から苦悩にさいなまれている患者はまれなのかしれない。あるいは、ケアする側の人々が、苦しんでいる患者がこのような苦悩に苦しんでいることに気がついていない場合もあるのかもしれない。

患者のために、洗面・整髪・飲食から、ベッドでの身体の向きや位置の交換・清拭・入浴、さらにオムツの取替えを含む大小便の世話まで、誠心誠意真心込めて尽くしてあげ、いちいち患者から頼まれなくても気働きをしてかいがいしく世話してあげることが、患者への最善のケアであり、患者はだれでも喜んで受け入れ、感謝すらしてくれるものと、固く信じて疑わない人が多いのではないであろうか。世話をしてあげている人が、一歩さがって、自分がしてあげている世話を、患者自身が心から喜んでくれているのかどうか、と考えてみたことがあるのであろうか。

患者が喜んでくれていると自分の価値観で判断して、そう思い込んでいやしないであろうか。もちろん、このような患者は、それだけの世話をしてもらわなければ生きていけないのだから、世話を断わることはできないし、一生懸命に尽くしてくれている人に「済まないね。ありがとう」とお礼の言葉も言うに違いない。その場合に、してもらっている行為に対しては感謝の言葉を言わなければ気が済まずに声に出していう人でも、「世話してもらわないで済むものなら、本当はしてもらいたくないのだけれど、今の自分の身体では、お断りしたら生きていけないのだから、しょうがない、恥を忍んで世話をしてもらう以外にはない」と内心では思い、「何のために生かされ続けなければならないのだろうか」と苦悩し続ける患者もいるに違いない。現に、カナダやアメリカで自発的安楽死を要請する幾つもの実例がある。次に、二例だけ挙げておく。

筋萎縮性側索硬化症(通称アミトロ)の患者で、意識は澄明で知的判断力は保たれながら、日常生活はすべて他の人に頼らざるを得ず、自己の尊厳が損なわれ続けていることを苦にした四三歳の婦人が、自殺幇助を医師に要請する許しを求めて、カナダ最高裁判所にまで上告して法廷闘争を続けた判例は有名である。このように不治の難病による自己の尊厳の侵害に耐えられないで、医師による自発的安楽死を求めた人もいるのである(本誌一四九〇号、一九九五年参照)。

また、ミシガン州で、キヴォーキアン医師が開発したマーシトロンと呼ばれる自殺装置の助けを借りて他界した婦人は、アルツハイマー病と診断されて、間もなく自分の人格の崩壊がくる運命にあることを知り、今ならまだ残っている自己の尊厳とQOLを守り切れると思って、永久の眠りについたのであった。

キヴォーキアン医師が、彼女に死ぬことを思いとどまらせようとした時に、彼女は「私は自分の教会の神父さんに、私の葬式の式次第一切をお話してお願いし、神父さんに約束をしていただいていますので、もう思い残すことは何もありません」と告げている。そして、自己の人格の崩壊による惨めな姿をさらさないで済むことに安堵し、彼女は医師に感謝して、医師や夫にさよならを言い、医師による自発的安楽死をさせてもらった(本誌一五二〇号、一九九六年参照)。

この例のように、人生最後の選択として、患者が自主的判断で医師に「安らかに眠らせてほしい」と眠ったままでこと切れるようにと自発的に強く要請した結果、医師が納得して幇助の手を差し伸べるのが、自発的安楽死である。

終末期に耐えられない疼痛や苦痛にさいなまれて、医師に「耐えられないから薬で眠らせて欲しい。目を覚ましてまた苦しむのは嫌だから、眠ったまま息を引き取りたい」と強く要請して、医師が患者の求めるように楽にしてあげた場合、それは自発的安楽死をさせたことになる。しばらく眠らせてあげるつもりだったのに、投与した薬が効き過ぎて、意図しなかったのに患者が死亡してしまったとすれば、間接的安楽死になる。この基本的な法的解釈を理解しておくことが重要である。

②セデーションをめぐる生命倫理的概点からの考察

わが国でも先日、札幌で「日本緩和医療学会」が発会した。

「緩和医療」は、患者の疾患を治癒させる医療が効果がなくなった病状の場合に、痛みや他の症状の対症療法によるコントロールはもちろん、患者の精神的、社会的、霊的問題をめぐるケアを含む積極的な全人的ケアにより、患者と家族のQOLを高めることを目標としていると考えられる。

この学会でも、セデーションについて活発に研究されているのに違いない。しかし、現在わが国でセデーションを行っている医師たちの間でセデーションについての考え方が一定しているとは思えず、セデーションをさせると間接的安楽死に相当するのではないかという不安をもっている医師がいることが、特に気になるのである。

「ターミナルケア」六巻四号(一九九六年七月)に掲載の論文と同誌の特集「セデーションを考える」に掲載された数編の論文をもとにして、生命倫理的観点から考察を加えてみたい。

(1)恒藤論文(二五七ベージ)のセデーションの定義について

「死亡前に緩和困難な苦痛から末期癌患者を解放するために、患者の意識レベルを意図的に最後まで持続的に低下させること」とある。

この定義にある「患者の意識レベルを最後まで持続的に低下させること」の「最後まで」とは「持続的に低下し続けて最後に至る」という意味なのであろうか。とすれば「投与後意識が朦朧となり、さらに意識レベルを持続的に低下させ続けて二度と意識が戻らない」ことになるのではないであろうか。この場合の患者の生命の終焉は、寿命がきて死んだとは言えないと思われる。医師の行為の結果生じた死であることは否定できないであろう。しかも、医師が意図的に行うとすれば、これは積極的な安楽死である。本人の明示な自発的な要請に基づくのでなければ、自発的安楽死にはならず、医師による殺人と判断される危険がある。とても間接的安楽死といえるものではない。

恒藤は、本論文の「おわりに」の項で「安楽死や自殺には反対する立場を取ってきたことを最後に明言しておく」と述べているので、私にはこの定義は危険に思えてならないので、定義の再考を希望してやまない。

ちなみに、本特集の池永論文の「おわりに」(二八三ぺージ)に「セデーションは、苦痛緩和の最終手段として著明な効果があるが、その適応とタイミングをまちがえると、安楽死に近づく危険性もある」と警告をしている。

(2)末永論文(二九〇ぺージ)のセデーションの考え方について末永は「積極的な緩和医療を駆使しても、この苦痛から患者を解放する方法がない時にセデーシヨンを考える」と述べた後で、次の四つの留意点を挙げている。

①末期に起こる症状に対して、的確な診断と最善の緩和医療を行っても、症状の改善と患者の苦痛が改善できない、と医学的に正しく診断がなされていること。

②患者、家族のコミュニケーションが十分になされていること。

③病態の変化は前もって予測できることが多いので、患者、家族に十分に説明し、患者、家族がセデーションに対して納得されていること。

④家族が患者の死を受け入れることができていること。

最後の留意点「家族が患者の死を受け入れることができていること」を、なぜセデーションを行う前の必要条件にしなければならないのかと首を傾げたくなる。セデーションの結果、患者が死の転機を取ることを予測しているからであろうか。

このようにして患者が死亡した場合に、もし医師が、患者が死んでしまうことがあるかもしれないけれども死ぬほどの用量の薬剤は投与していないから大丈夫と思っていた場合には間接的安楽死、患者の死亡を予期していたとすれば積極的な安楽死になる可能性を否定できないであろう。

(3)渡辺論文(二九三べージ)のセーデーションの考え方について

渡辺は「セデーションの意味は、患者さんを耐え難い苦痛から解放することと同時に、安らかな死を迎えさせることができたという納得と満足感を家族に与えることの、二つの側面があると思われた」と述べる一方、「一般に行われているセデーションは、間接的安楽死の中に包含されるのではないかとも考えられる」とも述べている。

(4)小澤論文(二九四ページ)のセデーションの基準について

小澤は、次の四つのセデーションの基準を提唱している。

①患者に耐え難い肉体的苦痛が存在する。

②患者の死期が避けられず、かつ死期が迫っている。

③患者の肉体的苦痛の除去・緩和のための手段が尽くされ、代替手段がない。

④患者の同意がある。主治医を含め、複数の医療従事者によって患者が混乱していると判断した場合には、家族の同意があること。

この四つの基準と次の四要件の文面を比較していただきたい。

①耐え難い肉体的な苦痛があること。

②死が避けられずその死期が迫っていること。

③肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと。

④生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること。

この四要件は、一九九五年三月二八日の東海大学事件の判決の際に横浜地方裁判所で、松浦裁判長が提示された「医師による積極的安楽死」の四要件である。

両者を比較すると、多少文言の違いはあるものの、本質的には同一の内容であることは疑う余地のないところであろう。とすれば、小澤は、セデーションを「医師による積極的安楽死」と同程度のものと判断しているといえよう。もし、セデーションが終末期における通常の医療行為であるならば、これほどまでの基準を設定しなければならないといえるであろうか。セデーションが一歩間違えれば「医師による積極的安楽死」あるいは「間接的安楽死」になりかねないという危惧があると警戒されているのであろうか。

小澤自身「『死亡前に緩和困難な苦痛から末期癌患者を解放するために、患者の意識レベルを意図的に最後まで持続的に低下させること』と定義されるセデーションには、その目的が違うことが明らかであっても、なにか安楽死を連想させる感じがする」と同論文で述べている。

(5)森田・井上・千原論文(二九五ぺージ)のセデーションの定義について本論文では、著者らは、セデーションを「患者の苦痛を軽減するために、患者の意識を意図的に低下させること」と定義している。これは穏健な定義であると思われる。

(6)志真論文(三〇ニベージ)

本論文で、志真は、「『間接的安楽死』と『持続的鎮静』が、現実の臨床現場で同じものと考えるかどうか、これが今後の論議のポイントとなる」と述べているが、的を得た指摘である。志真は、さらに「私は、『間接的安楽死』と『持続的鎮静』は実際上区別することはむずかしいと言わざるを得ないと思う」「『持続的鎮静』は通常の医療行為の延長線上にあるものと考えることは危険であると思っている」と述べている。

まかり間違えば、法に触れる医療行為になり兼ねないというわだかまりをもって日常の臨床の現場でセデーションを実施するのには、かなりの精神的な葛藤があるのではなかろうか。

(7)丸山論文(二八四ぺージ)のセデーションと看護婦の役割

丸山は、緩和ケア病棟の看護婦の立場から、「現在の医療・看護の知識と技術では緩和できないほどの身体的苦痛もある。そのような時には、苦痛を緩和する方法としてセデーションを行うこともやむを得ないと考える」と述べているが、セデーションをどうして他の種々な緩和療法と区別しなければならないのであろうか。セデーションも立派な緩和療法の一つとして、堂々と語れない何かがあるのであろうか。

丸山は、セデーションを開始するときの四つの原則を挙げている。

①患者本人が我慢できない、眠らせて欲しいなどと希望している。

②そのときに行っている症状コントローールの方法以外に苦痛を取る方法がない。

③患者に残された時間が数日以内であると考えられる。

④患者または家族がセデーションを望んでいる。

以上のことについて、家族、医師、看護婦の間で十分検討され、全員がセデーションの必要性を認めていることを挙げているが、妥当であると思う一方で、なぜセデーションをこのように特別のものとして、開始の時期まで限定する必要があるのであろうか、と気になるものである。死期が迫っていない患者が激痛などで苦しんでいるときに、数時間熟睡してもらうのがなぜいけないのであろうか。なぜ「患者に残された時間が数日以内であると考えられる場合」という条件が必要なのであろうか。セデーションでは患者が死亡する確率が高いからであろうか。あるいは、結局は、セデーションによって安らかにとわの眠りについてもらいたいからなのか。「患者に残された時間が数日以内であると考えられる場合」を必要原則にするのは、本特集の前野論文の中(二七四ページ)で、前野が「セデーションしてもしなくても、患者の生命は短いことには変わりがないことを家族に説明することが大切である」と述べているのと同じように、セデーションで死亡してもそれも寿命なのだと考えるからであろうか。積極的にセデーションをして死亡した場合には、たとえ短い期間であろうとも、患者の寿命を医療の介

入で短縮することに違いはないと思うものである。

むすび

WHOがん疼痛治療法によってさえも、末期がん患者の激痛を緩和できない場合があることは衆知のことであり、たとえ疼痛は緩和されても痛みではない身体的な苦痛に身の置きどころのない苦しみに耐えられない患者もあり、そのような人体的な苦痛も緩和してあげることができても、患者の人間としての精神的、社会的、経済的、家庭的、あるいは霊的苦痛は絶えないものである。その上、患者の自己の自尊心や尊厳が病気によって侵害されていくのに耐えられない患者や、病気の特 有な症状の一つとして自己の人格の崩壊が必発することを恐れ悩み苦しむ患者もいる。あらゆる緩和医療の中にセデーションの占める重要な役割があることは疑いがない。しかし、セデーションを実施する医師や看護婦に、不安な気持ちを持たせるようなセデーションは改善して、間接的安楽死や自発的積極的安楽死あるいは医師による患者の殺人などで裁判所で裁きを受けるようなことのないようにセデーションの在り方を研究し、実施する日の早く来ることを、心底から祈るものである。

そこで、次のことを提言したい。死ぬまで持続的にセデーションを継続せずに、家族が見舞いに来る時間帯を選んで、浅い睡眠になるよう投与量ならびに投与時間を調節し、家族が呼べば反応できるようにしてあげ、もし、その場合でも、苦痛を激しく訴える場合には、家族と相談の上でしばらく深い眠りにつけてあげる。

セデーションでも、必ず、家族が呼べば反応する程度の眠りに戻すことはできないであろうか。もし、それが可能ならば、決して間接的安楽死すら心配する必要もなく、セデーションは、確実に通常の緩和医療の一つとなる。終末期に眠り続ける患者が、死亡する前日などに急に自然に意識が戻り、家族とお別れすることがあり、家族がとても喜ぶことを日本でも北米でも経験している筆者としては、セデーションの場合にも、そのような機会を人為的に作ってあげたら、患者のためにも家族のためにもよいことであると思われ、これができるのはセデーションの利点ではないかと考えている。


星野一正
(京都大学名誉教授・日本生命倫理学会初代会長)