時の法令1570号, 45-51,1998年5月30日発行
民主化の法理=医療の場合 43


タスキギー梅毒人体実験と黒人被害者への大統領の謝罪

星野一正


まえがき

    米国のハーバード大学医学部のヘンリー・ビーチャー教授が医学雑誌「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」に、「臨床実験における倫理的行為の不履行は決してまれではなく、心配になるほど、一般化されている」と、一九五〇年代半ばからの一〇年間に米国の一般病院で入院患者に行われた非倫理的医療行為の実例を挙げて批判した論文「倫理と臨床研究」(Ethics and Clinical Research)を本誌一五六八号に紹介した。

    ところがビーチャー教授が報告したケースよりももっと悪質な非倫理的人体実験を、米国政府の機関がアラバマ州のタスキギーという町において、約六〇〇人の黒人を対象として一九三二年から四〇年間にわたり実施していたことが、一九七二年に明るみになった。「タスキギー梅毒実験」である。米国政府は、一九七四年に、「タスキギー梅毒実験」の被害者や遺族たちに一〇〇〇万ドルほどの和解金を出した。しかし、その後、四半世紀にわたり、大統領が、その被害者や家族、国民に対して、国としての謝罪を述べたことはなかった。

クリントン大純領の正式な政府としての謝罪

    クリントン大統領は、一九九七年五月一六日にホワイト・ハウスの儀式において、米国政府がかつて「タスキギー梅毒実験」として行った非倫理的な行為を反省して、生存している黒人老人とその家族にはもちろん、米国国民に対しても、「あの研究活動は非人間的で残酷極まりない間違った行動で、学問的根拠もなかった」と政府として正式に謝罪を行ったのである(この時点において関係者は、八人の生存被害 者のほかに、被害者の妻二三人と一五人の子供と二人の孫がいた)。

    クリントン大統領は、謝罪した上で、タスキギー大学に医学的研究と医療におけるバイオエシックス研究センター(Center for Bioethics in Research and Health Care)を開設するために二〇万ドルを投資することを誓い、また少数民族の学生のための「バイオエシックス奨学金」を設け、より多くの黒人にバイオエシックスの研究や医学研究を生涯の職業として従事してもらえるように努力するとの声明を出した。

    しかし、タスキギー大学の前身であり、由緒ある黒人の専門学校であったタスキギー学園自体は、「タスキギー梅毒実験」に全く加担しなかったということについては、大統領は言及しなかったという新聞報道がある(Nashville Banner, May 16. 1997)。

    クリントン大統領のこの一連の行動は、「タスキギー梅毒実験」が、特に黒人たちの間にタスキギー恐怖症(Tuskegee phobia)を起こし、医師や医療を信用しなくなり、ヒトを対象とした医療実験に被験者として参加することに抵抗をもつようになっているので、黒人研究者がバイオエシックスと医学研究に生涯を捧げるようになるように努力しているのだと考えられている。

「タスキギー梅毒実験」の発覚

    一九七二年七月下旬にアソシエイテッド・プレス(Associated Press)のジーン・ヘラー(Jean Heller)が、「タスキギー梅毒実験」について、社会に次のように暴露した。

    米国公衆衛生局(Public Health Service: PHS)は、タスキギー(Tuskegee)郡並びにその周辺を含むアラバマ州のMacon郡に住む黒人について治療をせずに放置した場合の梅毒の影響を調べる実験を、四〇年にわたり実施していた。この実験は、黒人男性の梅毒罹患者が三九九人並びに対照として梅毒に罹っていない二〇一人が対象とされた。この実験が開始された段階で、梅毒罹患者全員は梅毒の末期であった。なぜなら、梅毒の末期に起こる種々の重篤な合併症などについてより多く研究するためだった。

    報道関係の調査によれば、PHSは、この実験の計画書を見つけることができなかった。後になって、この実験の計画書は存在せず、実験手順は進行につれてできていったらしいことが分かった。PHSの医師の巡回の際に種々のテストや医学的検査が実施され、定期的な血液検査や死体解剖の結果が、被験者の病状として追加された。

「タスキギー梅毒実験」に関する報告

    ヒューストン大学のジェイムズ・ジョーンズ(James H. Jones)教授が、一九七二年から本格的な調査を始め、膨大な資料をまとめて、一九八一年に出版した『悪い血(Bad Blood)』(The Free Press; A Division of Macmillan Publishing Co., Inc. New York)を参照して、以下、本論文を執筆することにする。

    「タスキギー梅毒実験」は、梅毒の治療とは無関係であった。新薬の効果を試すためでもなかった。報告された梅毒患者の無治療死亡の実験結果は、常に梅毒に罹患していない対照より高い死亡率を示しており、一九六九年の時点で、少なくとも二八人、恐らく一〇〇人にも及ぶ被験者が梅毒が直接の原因で死亡していた。そのほかの被験者は重篤な梅毒性心疾患に罹っており、それが直接の死因となったのかもしれない。梅毒は、スピロヘーター(treponema pallidum)を病原体とし、先天梅毒は、梅毒に感染している母体の胎盤を通じてスピロヘーターが胎児に感染して起こり、後天梅毒は、性交やキスなどの肉体的接触によりスピロヘーターが皮膚や粘膜を貫通して体内に入ると、急速に増殖して全身に広がる。感染してから一〇日から六〇日くらいの間の潜伏期を第一期とし、外陰部などに硬性下疳ができる。次いで、第二期に移り、六週間からから六か月の間、スピロヘーターは増殖して全身に蔓延し、麻疹や水痘に似た皮膚の発疹が現れ、時に皮膚の損傷が起こったりする。また、第二期には骨や関節の痛み、動悸、消化不良、発熱、頭痛などの症状を呈することがある。第二期から第三期(つまり終末期)に移行せずに、治療もしないのに症状が軽減して、潜伏期となって慢性梅毒に移行することが多く、数か月から数年、長いと三〇年も続くことがある。第三期に入ると、定型的な梅毒性ゴム腫ができて、身体の種々の部位の骨を侵したり、心臓循環器系を侵して死に至らせたり、脳神経系を侵して進行性麻痺や脊髄瘻、難聴、失明などを起こして、終末期を終えて死に至る。

    治療しなかった場合に起こるこのような梅毒の症状の経過を研究するために、米国南部の無教育で貧乏な黒人を観察の対象(動物実験のモルモット代わり)として、この「タスキギー梅毒実験」が計画されて、一九三二年から実施されたのであった。

    このような実験に、どうして黒人たちが協力したのか。実際には、これらの黒人たちには、全く梅毒実験のことは伝えられてなく、実験材料にされることも知らされてなかったので、被験者になることに同意をしていたわけではなかった。

    PHS管轄の米国防疫センター・アトランタ支部(Center for Disease Control in Atlanta)の性病部(venereal desease branch)の医師たちが最初に「タスキギー梅毒実験」を担当した。

    これらの医師たちが実際に黒人たちをどのように説得したのかを探ることは難しかったが、実は、政府が実施する検査や医療を受ける登録をした者は、無料で身体検査をしてもらえ、自宅から診療所への往復の交通費は無料で、身体検査日には温かい食事が出され、簡単な病気の場合には無料で診療され、死亡時に剖検をさせた場合には遺族に埋葬代のほかに年金が、一九三二年の時点で五〇ドル(ただし以後インフレーションの度合いにつれて定期的に増額するという条件で)支給されるという魅力的な交換条件をつけたのであった。

    一方、この実験の露見時に質問を受けた性病部の医師たちは、被験者の黒人たちには、梅毒に罹患していることも言って同意を得ており、治療を受ける機会も提供し、やめたい時にはいつでもやめられることになっていたと否定したが、それは虚偽の発言であることを証明する被験者たちをはじめ多くの人々がおり、上述の優遇条件のために何も知らずに被験者となっていたのは事実であった。被験者たちは、検査の度に「お前には、悪い血(bad blood)がある」と長年言い続けられていたという。性病部の医師たちは、「当時、あの地域で〈悪い血〉というのは梅毒と同じ意味であった」と報道人に言ったが、犠牲になった被験者たちは「四○年間にたった一度たりとも、医師から梅毒だと言われたことはなかった」と証言している。

    ジェイムズ医師(Reginald G. James)は、一九三九年から四一年まで、この地域で梅毒の診断と治療にかかわっていた間に経験したことを新聞記者に、次のように話した。

    PHSに登録されている黒人を見逃さないために雇われていたリバース(Eunice Rivers)という名前の黒人看護婦が、ジェイムズ医師と働くために配置された。ある日、外来にタスキギー診療群に属する一人の黒人患者が診察にきた時、ジェイムズ医師は看護婦リバースに、「彼は、PHSが実験中の患者だから、梅毒の治療はしてはなりません」と言われ、悩みかつ動揺させられた。治療をしようとすると、その患者は二度と来なくなってしまった。実は、これらの黒人たちは「勝手に治療を受けてはいけない。もし治療を受けたら、政府の治療契約は破棄されて、約束されたすべての恩恵は受けられなくなる」と厳しく言われていたのであった。

    看護婦リバースの役割などについては、Public Health Report 1953に掲載された「タスキギー実験」についての論説を新聞記者が見つけた結果、明るみに出たのであった。

    看護婦リバースは、PHSと「タスキギー梅毒実験」被験者との間の連絡係という重要な役割を果たしていた。PHSからの医師たちは交代が多く顔や名前がよく変わり、仕事に継続性がなかったので、タスキギーの住民であったリバースが、一九三二年以来のすべての被験者と多くの医師たちとの間の連絡を取り、教育程度が低い南部黒人社会の方言や慣習に基づく住民感情などを知らない医師たちとの間の溝を埋め、意思の疎通をはかったりしていた。しかし、PHSにとって最も重要なことは、リバースが被験者を死に至らしめる恐ろしい「タスキギー梅毒実験」のために政府側の一員として働いていることを住民たちは全く知らずに、リバースを信頼していたことであった。

    リバースは、診療を受けに行く被験者たちを、政府の紋章のついたピカピカのステーションワゴンに乗せ、家族や近所の人々に手を振らせて診療所までつれて行った。これは「政府と診療契約を結んだ住民の特権」としてうらやましがられたようである。

「タスキギー梅毒実験」への批判に対する政府の反論

    「タスキギー梅毒実験」の露見時に、PHSのスポークスマンは、多くの新聞は、この実験が秘密裏にされたと間違った報道をしていると、指摘した。秘密にしていたどころか、医学雑誌に多くの報告をしているし、学会では公然と議論が行われていた。「タスキギー梅毒実験」の基本的な実験方法を記述した十数編の論文を米国の一流医学雑誌に発表してある。「タスキギー梅毒実験」は政府のPHSによる単独の実験ではなく、アラバマ州保健省、タスキギー学園、タスキギー医学会、メコン郡保健部が関与していた。

    「タスキギー梅毒実験」の弁護者たちは、この実験が開始された当時、梅毒に対する治療法によって果たして梅毒患者が救われたかどうかは疑わしかったと主張した。一九三〇年代のはじめに梅毒治療法としては水銀剤と砒素剤が使われており、サルバルサン(salvarsan)と呼ばれた薬がよく使われていた。しかし、サルバルサンは非常に毒性があり、患者に対して重い副作用があり、時には死亡させることがあった。サルバルサン治療は、痛みが強く、その治療は一年くらい継続しなければならなかった。米国防疫センターの医師は「サルバルサンは期待される効果よりも起こりうる害のほうが大であった」と言った。PHSの医師たちは、これらの事実から分かるように、当時の医学のレベルから治療の有無の功罪を比較した時に、梅毒患者に治療をしないほうが害が少ないと判断したのであって、「タスキギー梅毒実験」が道徳的配慮もなく企画されたとは言えないと主張した。

    しかし、一九四五年ごろにペニシリン(penicillin)が臨床に使えるようになり、梅毒の治療に非常に効果があることが分かってからも、ペニシリンを含む一切の治療を実施しなかったことに対する弁明に窮した。政府のある医師は「本実験における最も批判されるべき倫理問題である」と言い、他のスポークスマンは「一九四六年になぜタスキギー梅毒実験を中止しない決定をしたのか、その理由が分からない」と言明している。この責任者として特定の人物を名指しをしていなかったが、当然それはヘラー医師(John R. Heller)を指していたと言えよう。ヘラー医師は、一九四三年から四八年までPHSの医師として性病部部長をしていた。新聞記者のインタヴューに、「この梅毒実験には「何ら非倫理的な点もなく、非科学的な点もない」と明言して記者を驚かせたという。メコン郡の医師は、ヘラー医師の発言に同調して、「一九四〇年代には、自分もペニシリンを梅毒の治療に使わなかったであろう」と言い、「ペニシリン投与拒否は、防御的な医学的決断(defensive medical decision)である」という意見をもっていた。防疫センターの医師は、「一九三二年や一九四六年の当時と一九七二年現在のヒトを対象とした医学的研究に対する態度や考え方は革命的変化をしているので、もし現在であったならばタスキギー梅毒実験を実施したとは考えられない」と述べていた。

    ちなみに、一九四六年には、ドイツのニュールンベルグで、ナチスの行った多くの人々に対する残虐行為に対する国際軍事裁判があり、翌一九四七年には、ヒトを対象とした医学的実験に対する「ニュールンベルグ倫理綱領」が採択されている。なお、一九七二年には、インフォームド・コンセントも確立しており、米国のベス・イスラエル病院のミッチェル・ラプキン院長が、来院する患者や家族に「患者としてのあなたの権利」という文書を配り始めた画期的な年であった(両者の本文の翻訳は、拙著「インフォームド・コンセント—日本に馴染む六つの提言」丸善ライブラリー、一九九七年五月、参照)。

クリントン大統領の謝罪の意義

    「タスキギー梅毒実験」における被験者は、すべて教育程度が低く、経済的にも貧しい下層階級の少数民族の黒人であった。当然、人種差別の中であえいでいた。そのような環境において、政府が黒人のために、医療を無料で提供するばかりか、幾つかの恩典をつけて、《政府の医療計画が梅毒人体実験そのものであることを内緒で》参加登録を奨励したので、人種差別で苦しめられ続けてきた黒人たちは喜んで登録したのだったが、それは、さらに酷い黒人差別の政府の計画だった。彼らは四〇年の長きにわたって、政府に裏切られ続けたのであった。治療が受けられると思っていた黒人被験者たちは、梅毒に対する治療は全くされず、たとえ薬を与えられた場合でも、それはプラシーボ(placebo: 治療目的の疾患には効果的な薬効のない物質)を与えられたらしいのである。

    文筆家で社会批評家である八一歳のマーレイ氏(Albert Murray)は、「米国には、人種差別の問題があることを認識している大統領は多くはなかった。クリントン大統領がそのことを言ったということは非常に重要なことであって、従来の大統領と顕著な違いがある」と一九九七年五月一八日に新聞記者(St. Louis Post-Dispatch)に述べている。

    「タスキギー梅毒実験」における人種差別について、クリントン大統領は、黒人医師の求めに応じて、「タスキギー梅毒実験の生存者たちに対して申し訳ない」と述べた後で、「この人体実験は、米国民に対する政府による明らかな人種差別であった」と認めた。そして、前述の通り、非倫理的な行為に対して、米国政府として正式に謝罪を行ったのであった。

    過去の出来事に対して、その直接の責任者ではないクリントン大統領が、米国を代表して謝罪したことは価値があると広く評価されている。また、そのような謝罪があれば、被害者にとっては、加害者を許すきっかけができる意義もあると、謝罪の心理学を専門にしているラザー博士(Aaron Lazare マサチューセッツ大学医学部長)は、評価していると報道されている(The Dallas Morning News,May 11. 1997)。


星野一正
(京都大学名誉教授・日本生命倫理学会初代会長)