【組織培養における発癌実験:動物への復元接種について】

高岡聰子


 癌は自己の細胞が悪性変異して、異常増殖し、自己(宿主)を死に至らせる病気ですが、動物に発癌因子を与えて癌を作った場合、発症した動物は死んでもその癌組織(癌細胞)は次の動物へと移植継代できることは実験的にわかっています。その移植は当然同種の動物を使いましたが、純系動物で実験をすれば高い成功率が得られました。動物継代腫瘍は、日本では有名な吉田肉腫や腹水肝癌をはじめとして、国内国外に数多くあり、組織培養の実験にも重宝されてきました。

 組織培養の手技を使って培養内発癌実験が始められたとき、試験管内で変異を起こした細胞が癌化したのかどうかを知る方法に試行錯誤が繰り返されました。形態変化については、病理の分野では組織としての正常と悪性との診断がつきますが、培養された細胞の形態では明確な診断がつきませんでした。実験手段としては、染色体異常、軟寒天内でのコロニー形成、サイトカラシンB添加による多核形成など使われましたが、やはり決め手は動物への復元接種でした。

 動物継代腫瘍の経験から、細胞培養の材料は純系動物が使われ、復元接種した動物が腫瘍死することで、培養内発癌実験の成功が確認されました。そして勝田先生は組織培養内発癌実験を始めるにあたって、たとえ時間がかかっても日本産ラットの純系を作ることから始めようとされたのでした。

 マウスやラットは同種純系を実験材料に使うことで、培養内での悪性化を確認できますが、ヒト細胞の悪性化の確認はどうするか、そこで異種移植法がいろいろと模索されました。1960〜1970年代の勝田研究班の実験記録をみると、様々な方法が試されています。そのころすでに癌免疫についての知識は蓄積されていましたが、ヌードマウスが一般的に使える状況ではありませんでした。

異種移植では復元接種される動物の免疫反応(拒絶反応)を極力おさえなくてはなりません。初期にはハムスターチークポーチが花形でした。チークポーチは免疫反応が弱い部位で、異種移植でもかなり良い成績が得られましたが、さらにコーチゾン処理や抗胸腺細胞(Tリンパ球)抗体処理などが成功しています。しかし、現在のようにヌードマウスを購入すればすぐ実験にとりかかれるという手軽さはなく、ハムスターを沢山殺して胸腺を採取し、その胸腺細胞を抗原としてウサギを免疫し、その免疫血清をハムスターに接種して、はじめて復元実験にとりかかれるのですから随分手間のかかる実験でした。

後になってようやくヌードマウスが一般的に使われるようになり、悪性化細胞を検索するためのヌードマウスでの実験法の成書も出されるようになりました。

しかし、ヌードマウスは寿命が短いので、腫瘤形成を指標にして相対的な対照群と実験群との悪性度の違いは確認できますが、腫瘍死までの観察は困難です。培養材料がヒトやサルなどと同種純系への復元接種ができないものでは致し方がないのですが、マウスやラットなどの確立された実験動物由来の培養細胞なら同種純系動物への復元接種の方が悪性化確認のために有利ではないかと思われます。 同種同系動物への復元実験でも、接種する動物の年齢、接種部位、接種細胞数、によって成績が大きく異なります。同種同系であっても、多くの場合なるべく免疫反応(拒絶反応)の弱い条件を選ぶ方が高い成功率が得られます。

年齢は新生児(生後1日以内)がよく使われましたが、実験動物を扱ったことのない研究者が失敗するのは、新生児に実験者の匂いを残して親に食べられてしまうことでした。接種後の赤ん坊ネズミをアルコール綿でよく拭いて、敷藁でまぶしておくように注意されたものでした。

接種部位は皮下、腹腔内、脳内、筋肉内など、それぞれに長所短所があります。皮下や筋肉内接種は容易で事後経過を観察することに優れていますが、細胞によっては定着しないことがあります。腹腔内も接種は容易ですが、事後経過を観察するためには度々腹水を採取しなくてはなりません。免疫反応の少ない脳内は、接種技術に熟練すれば良い成績が得られる部位ですが、初心者にとっては難しい作業でした。また経時的な観察は出来ません。その他にも、肝臓由来の細胞は肝臓へ復元するのがよいとか、肺や副腎や尻尾から血流中へ注入するとか、随分いろいろなことが試みられたものでした。

接種細胞数には十分注意をはらう必要があります。吉田肉腫細胞は尾静脈から1個注入すれば血流内で増殖し動物を腫瘍死させると報告されています。しかし皮下では1個接種は腫瘤形成に至らなかったとのことでした。ヌードマウスでは106以上といったかなり大量の細胞を接種する必要があります。

培養細胞の復元接種は同種同系を使っても、接種部位や接種細胞数によって異なる結果になってしまう報告が数多くあります。また接種時の細胞の状態にも影響されます。世界最古の細胞株L929はC3Hマウスに由来し、培養内で発癌剤処理を受けて悪性化していることはよく知られていますが、C3Hマウスに復元接種したとき簡単に腫瘤を造らないことが問題になった時期がありました。そのころL細胞をカバーグラス上に培養し、カバーグラスごと皮下に埋め込んでやれば、腫瘤を形成して、その組織像は肉腫様であったという報告がありました。培養時の足場だけでなく、復元時にも足場を必要とする培養細胞があるという論旨でした。

遺伝子レベルでの培養細胞の悪性変異機序は解析されていますが、その悪性度を測定することは難しい問題のように思えます。ラット・マウス・ハムスターの細胞が無処理で培養内不死化し、自然悪性化する事実は常識ですが、一方それらの動物継代の腫瘍細胞を長期間培養し動物継代細胞と比較すると腫瘍性が低下していることもまた知られています。自己の中から変異して出てくる「癌細胞」の悪性度は、培養という人工的環境で簡単に律しきれないのかも知れません。


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