塩類溶液 【培地のお話】

3:塩類溶液とpHの話

高岡聰子
 生体の中にある組織や細胞を体外の環境で生存させる時、基本的な条件は生理的条件でしょう。浸透圧、pH、イオン組成が生体内と同等であれば、増殖因子がなくても短期間あるときはかなりの時間を体外で生きていることができます。医学や生物実験にリンガー液として使われてきた生理的塩類溶液は、現在使われている塩類溶液の元祖です。Linger(1882) がカエルの心臓の還流実験のために処方した最初の塩類溶液と言われ、カエルの血清と同等になるように生理的条件が考慮されています。組織培養の培地を考えるとき、まず考えなくてはならないのはこの塩類溶液です。哺乳動物、爬虫類、魚類、昆虫、植物それぞれに生理的条件が異なり、従ってそれぞれに至適な塩類溶液の組成があるはずですから。

 とは言っても、1990年代の現在、塩類溶液は市販の合成培地の中に組み込まれていますから、その処方がどうなっているのか気にとめる人は少ないかも知れません。以下は哺乳動物細胞の培地に使われている塩類溶液についてお話したいと思います。 


塩類溶液処方 (g/L)

Tyrode(1910)Earle(1943)Gey(1949)Hanks(1949)
NaCl8.006.808.008.00
KCl0.200.400.380.40
CaCl20.200.200.130.14
MgCl2・6H2O0.10.0.21.
MgSO4.0.10..
MgSO4・7H2O...0.20
NaH2PO4.0.125..
NaH2PO4・H2O0.05...
Na2HPO4・2H2O...0.06
Na2HPO4・12H2O..0.30.
KH2PO4..0.0250.06
Glucose1.001.001.001.00
NaHCO31.002.200.250.35
気層空気5%CO2含有空気空気空気



 上記の表でわかるように、Tyrode、Gey、Hanks は NaCl 濃度が 8 g/L で培養時に CO2 を使っていません。勝田研究室のDM処方では DM-145 までは Gey を参考にし、その後は Earle に準じています。現在よく使われている培地の殆どは Earle の処方で、気層は当然のように 5% の炭酸ガスを含む空気ですが、当初の Earle 処方での「要求される pH値に応じて CO2 と NaHCO3 の量は相関して決める」ことは無視されているようです。

 浸透圧は殆ど NaCl 量で決定されます。従って NaCl 量の多い Gey の処方を使ったDM-145までは 300〜310 とやや高く、Earle 処方のDM培地は 260〜280 です。浸透圧については、無蛋白培地で HeLa・P3 を使って塩濃度を変えて実験したことがありますが、260〜320の違いでは増殖に影響がありませんでした。しかし、浸透圧に影響するような物質を添加する実験では、添加物の量に従ってNaCl量を増減するなどと考慮する必要があるでしょう。

 イオン組成については、カルシウム・マグネシウムの生理活性が注目されていますし、ナトリウム、カリウム、リン酸が必須であることは常識です。そしてどの処方をとっても、大きな違いはありません。

 pHに関してはまだまだ問題を残しています。40年前、まだ炭酸ガス・重曹の緩衝法が活用されていなかったころ、pHの調整に苦労した思い出があります。培養開始時のpHが培養細胞にどんな影響を与えるかという実験でした。pH指示薬(フェノールレッド)は添加していないころでした。pH調節のために苛性ソーダと塩酸の規定液を準備し、そのころとしては最新式のベックマンのpHメーターを購入し、いざ始めてみると、なかなか容易ではありません。それは培地には重曹が添加されていたので、ビーカーに培地をいれてpHの測定を始めるとあれよあれよと言う間にアルカリになってしまうのでした。そこで、原法よりリン酸緩衝を強力にし、段階的にpHを変えて培地を作るなどと、いろいろ苦労したのでしたが、結局pHメーターは役に立たず、フェノールレッドを添加することになってしまいました(フェノールレッドは増殖に影響があるからという理由で使わない方針だったのですが)。その上、細胞が同じように増殖していても、培地中の糖がグルコースかガラクトースかによっても培地中へ放出される乳酸量が変わり、それがpHの変動に影響するのですから、細胞増殖に対するpHの影響を明確に知ることは出来ませんでした。

 Hanks処方は重曹量を減らしリン酸緩衝液を効かせてpHの安定をはかっています。ウィルス分野の仕事に多く使われていますし、Hayflickのヒト2倍体繊維芽細胞の継代法の論文でも「培養中にpHが上昇するなら、塩類組成をHanksに変えてMEM培地をつくるとよい」と述べられています(Tissue Culture Methods and Aplications,1973)。もっとも、現在ではCO2フランキを使用するならEarle処方が適性です。リン酸緩衝液の濃度を上げることも考えられますが、カルシウムとの反応を考慮しなくてはなりません。生化学実験に使われていた強力な緩衝液も試みられましたが、細胞毒性の強いものは使うことが出来ず、現在ではHEPES緩衝液のみが残ってCO2フランキが使えない条件下の実験で威力を発揮しています。

 培地中のイオン組成とpHの安定性について、私が思い出すのは「A polyelectrolyte buffer system for bacterial and mammalian cell culture:Exp.Cell Res,1968」という松村外志張さんの論文です。大要は、培養中で細胞の生存増殖によって変動する物質を、あらかじめIRC50を使って平衡させておくことによって、安定に保とうという実験でした。無機イオンについては良い成績が得られ、ことに培地更新の間隔を延長できるなどの実験的成果もあったのですが、実用的になることはありませんでした。

 遠い昔、精密で便利な器具もない中で、氷点法で浸透圧を測り、pHの測定に悩んだことを思うと、今は何と恵まれていることでしょうか。