細胞の樹立の事例 − 学術論文の紹介

がんの心配をした時、私達は病院に行って診察を受けます。診察を通じてがんの疑いをはっきりさせるために色々な検査をすることになります。本当にがんなのかどうかを突き止めないことには治療をする必要があるのかどうかもわかりませんし、がんの性質を詳細に知ることなしには的確な治療を進めることも出来ません。そのために患者さんの体の組織を採取して詳細に観察し検査をします。

検査は、血液検査が代表的なものです。血液では白血球やリンパ球などを観察したりしますが、各種のがんに特有な化学物質の量や特別な蛋白質などの血清中の量を測定します。さらに、詳細に調べるにはバイオプシーと呼ばれる方法で体の組織の一部を取り出すことになります。バイオプシーという言葉はあまり一般的では無いかもしれませんが、体に針を差し込んだりして臓器の一部を取り出すという人体サンプルの採取方法なのです。胃がんのような場合には、胃カメラの先に小さなピンセットが付けられていて、カメラで患部を観察しながら胃の表面を採取してきます。現在では様々な方法で手術をせずに体の組織を採取する方法が確立しています。また、癌の摘出手術を行った場合には、その摘出した組織の一部を培養するということもあります。

採取した組織の一部はパラフィン(ロウ)などで固めてから薄くスライスして顕微鏡で観察します。その際、細胞の中の特定の構造を染色することができる色素で染めるなどして観察します。一方、生体組織の一部は検査のために培養されることも少なくありません。今や培養技術は医療の現場でも日常的に活用され、細胞が体外で増えるかどうかを見てがんを判定することもあるのです。正常組織は簡単に増殖しませんが、がん細胞が混じっているとその細胞が活発に分裂を始めて増殖するようになるので、がんという病気を診断しやすくなります。

培養することによって、外から見ていただけではわからない細胞の様々な性質が分かるようになります。こうして観察したことは採取した患者さんの治療の方針などを決める材料となることは勿論ですが、同時に、このようにして医師が観察した様々な事柄は経験として蓄積され、他の類似のがんと比較検討されてがんという病気の性質を解き明かす材料になるのです。こうして観察された事柄は医学関係の学術雑誌に発表されて公にされます。こうして一人の医師の診察治療経験は他の医師にも伝えられて、研究は国境を越えて進むことになります。

また、論文として発表した事柄を客観的に確認できるかどうかといことは『再現性』ということが重視される科学研究の分野では非常に大事なことなので、それをどう保証するかということが常に考えられています。そのためには研究対象を誰もが入手することができなければなりませんが、培養細胞は容易に他の研究者に提供出来るので客観的確認を得るにはたいへん良い研究材料なのです。従って、昔から樹立した培養細胞は可能な限り研究者相互で利用しあうことが良いことであると推奨されてきたのです。

こうした点について書かれた論文を紹介します。2002年に細胞バンクに寄託された細胞に添付された論文の1つです。


紹介する論文は、Establishment and characterization of a new human gallbladder carcinoma cell line (OCUG-1) producing TA-4.(訳:TA-4抗原を産生するヒト胆嚢癌細胞株の樹立と性質確認)で、International Journal of Oncology(国際がん雑誌) という雑誌の1997年、10巻、1251-1255ページに掲載されたものです。細胞バンクに寄託されたOCUG-1細胞の関連論文として提供を受けたものです。著者は Yamada,N. Chung,Y-S, Ohtani,H. Ikeda,T. Onoda,N. Sawada, T. Nishiguchi,Y. Hasuma,T. Sowa,M.

この論文はたまたまこのコンテンツを作成している同じ時期に細胞の登録作業をしていた時のものです。この論文の材料と方法のところにはこのように書かれています。細胞のデータを登録する際には、こうした論文に一通り目を通して登録細胞の情報を拾い出すのが普通です。

がんを発症すると腹水がたまりますのでそれを取り除きます。そして、そこには大量の癌細胞が出ていますので、それを培養することが可能なのです。この論文ではその腹水から培養細胞を樹立しています。

論文の意義はイントロダクションに書かれています。英語の部分は割愛して、訳出して紹介します。

論文では、細かな実験方法が書かれたうえで結果が示されます。実験方法は、細胞の培養方法、形態学的観察方法、細胞増殖の様子、染色体の観察、癌関連抗原のスクリーニング、異種動物への移植実験、免疫組織学的実験方法の詳細、電子顕微鏡観察などで、方法は詳しく書かれています。その後実験結果が書かれますが、ここは専門的に過ぎますので割愛し、最後の考察(Discussion)という項目を紹介します。


以上が、たまたま寄託された細胞に付随していた論文ですが、皆さんはどうお感じになるでしょうか。分からない点があれば、質問箱のほうに質問していただくと良いと思いますが、1つ考えていただきたい点は、このような細胞の樹立はどのような意味があるかということです。『患者さん自身の立場』に立ってみたときと、『私達日本人社会』、ひいては『世界中の人々の立場』に立ってみたときに分けて考えてみてください。

治療は『特定の患者さん個人を助ける』という課題であり、研究は『疑問を解決する』ために行う行為だということを読み取れることができるでしょうか。もし、この特定の方に胆嚢癌が発症するより前に胆嚢癌のことがすっかりわかり、治療法が確立されていたなら、この患者さんの命を救うことが出来たと思います。しかし、この時点では不明なことが多く残念ながら救うことができませんでした。

ここで樹立した細胞は、腺癌が主体であったはずの患者さんからTA-4抗原を持つ扁平上皮癌が樹立されてきたのです。腺癌と扁平上皮癌が混在することの理由がはっきりすれば、もっと別の治療方法を使えるかもしれません。そうした点を明らかにするにも、この細胞を多くの研究者に使ってもらって、こうした疑問を解く糸口をつかみたいという意味が含まれていると思います。

なお、生物系の学術論文の構成は、『要旨』が最初にあって、『イントロダクション』、『材料と方法』、『実験結果』、『考察』という順で構成されています。そして、内容は感情を一切表現せず観察した結果を淡々と述べます。

細胞バンクでは、こうした論文を読んで必要な情報を抽出して細胞情報の項目に掲載しているデータシートを作成します。作成したデータシートはこのホームページで公開されて、研究者はそれを探して分譲の依頼をすることになります。もし良かったら専門的になりますが、細胞バンクのトップページに戻って細胞の検索をしてみてください。あるいは一覧表を眺めていただくのも良いかもしれません。上に紹介した論文の細胞はJCRB0191:OCUG-1として2002年7月に正式に登録されました。登録後1-2ヶ月の後には分譲用アンプルが作成されて実際の分譲が可能になります。

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