民主化の法理 医療の場合 48
時の法令第1580号、1998年10月30日
編集・発行、大蔵省印刷局


インフォームド・コンセントが誕生した
医療過誤裁判判決



まえがぎ

     ここ数年、日本でも、インフォームド・コンセントという言葉を知っていることが常識となってきている。それまでは、「説明と同意」という人が多かった。しかし、インフォームド・コンセントという用語がいっどこで生まれたかを知る人は、専門家を除けばまだ少ないと思われる。

     インフォームド・コンセントという用語が初めて使われたのは、アメリカのカリフォルニア控訴裁判所における1957年のサルゴ判決であった。つまりインフォームド・コンセントは、裁判基準の法理として生まれたのであった。その後`1960年代の医療過誤裁判で新しい法理が加えられ、その後「ニュールンベルグ倫理綱領」で採択されている倫理的基準に基づく法理が取り入れられて、1970年代の初めころに確立した。

     インフォームド・コンセントは、患者が医師からよく説明を受けて、ある程度の危険性のあることも理解した上で、自主的に判断して、自分が受けたい医療を選択し同意することによって、合法的にその医療を医師が実施できるようになり、患者と医師との人間関係を信頼関係のあるものにする法理である。インフォームド・コンセントを、医療における倫理の原則と思っている人が多いようであるが、実は、倫理的原則に基づいた裁判基準の法理なのである。インフォームド・コンセントが誕生したサルゴ判決を紹介する。

判決書

     裁判官J・ブライ(Bray)の意見に、P・J・ピータース(Peters)及びJ・ウッド(Wood)裁判官が同意した。

    〔裁判官の意見(裁判官ブライによる)〕

     医療過誤事件において陪審は、スタンスフォード大学病院の大学理事会のリーランド・スタンフォード・ジュニア(Leland Stanford,Jr.)及びフランク・ガーボード医師(Dr.Frank Gerbode)に対して総計25万ドルをマーチィン・サルゴ(Martin Salgo)に付与する判定をした。事実審裁判所は、付与する金額を21万3355ドルに減額し被告人全員が控訴した。

    なお、判決後、原告マーチィン・サルゴは死亡した。女性遺産管理人(administratrix)である彼の未亡人が原告代行者となった。本判決において「原告」という用語が使用されている場合は、故人を指している。また、スタンフォード大学理事会とスタンフォード大学病院は、1つの法主体である。この法主体は、サンフランシスコのスタンフォード大学病院が所有しかつ運営しているので以後「スタンフォード大学」として言及されている。そして、被告のために法廷助言者、上訴趣意書(amicus curiae brief)が、カリフォルニア大学評議員会によって提出され、またガーボード医師のために、米国外科協会により提出された。

〔提出される質問〕

  1. 過失推定則(res ipsa loquitur)は適用可能か?もしそうであるなら、それについての説明は適切であったか?(これから証拠として提出されるように、過失推定則に関しての説明が不適切であったので、被告全員に影響を与えたという誤審のために、下級審判決は破棄されなければならない)。

  2. 病院の医療チームによる過失(negligence)に関するガーボード医師の責任について

  3. 被告ガーボードに対して主張された他の過失における指示について

  4. 実験と製薬会社の小冊子

    1. 専門医を呼ぶ義務
    2. 開示する医師の義務
    3. 証拠提出しなかった

  5. 証拠としての医学教科書

  6. 医療過誤裁判の参照事項

〔証拠〕

     ガーボード医師は、1937年以来、カリフォルニア州で医師として開業する免許を持ってきた。彼の専門は外科で、心臓脈管外科と胸部外科であり、特に心臓脈管外科に関心を持っていた。彼は、傑出した権威者として認められたスタンフォード大学医学部教授である。

     原告は、55歳で早期老化を示す眼症状の病歴がある。本訴訟を起こす原因となった病気の約2、3年前から、歩行時に脚の筋肉の痙寧が始まり、ほぼ1年前から医師の投薬による治療を受けていたが、この医師が血管外科の専門医としてのガーポード医師に彼を紹介した。

     スタンフォード大学病院において、1953年12月31日に、ガーボード医師は、原告を診療した。患者の主訴は、両脚、主に両側のふくらはぎの痙攣性疼痛があり、時々びっこを引いていた。これらの症状は徐々に始まったが次第にひどくなっていった。運動すると、彼は、腰や背中の下方に痛みを訴えた。また、彼には腹部の右側に痛みがあった。

     ガーポード医師の診察の結果、この患者は見たところ年齢よりずっと年老いて見え、両側の下肢は大腿部やふくらはぎの辺りで萎縮していた。右脚は、蒼みがかっていた。両脚とも大腿動脈の拍動部分より下方では拍動を触れなかった。左側では大腿動脈の微弱な拍動を触れたが、右側では触れなかった。脚を挙げさせると、両脚とも蒼白になった。この症状は、進行した動脈不全の定型的症状である。そこで、ガーポード医師は、両脚や他の領域への血液供給不全を起こしている大腿動脈の閉塞の疑いと進行性の動脈硬化症という診断を下した。しかし、ガーポード医師は、両脚だけに血流低下が起こっているのか、それよりも高位の血流障害を起こす何かによるものかは確定できなかった。原告の血圧は180/90であったので、ガーボード医師は広範な動脈硬化症を考えていた。そうだとすれば、脳や冠動脈の梗塞を起こすかもしれない。

     ガーボード医師は、原告に「重い循環障害の形跡があり、検査の結果、腹大動脈に血行障害が認められ、右側と背中の痛みが示すようにその他にも障害があるようだ」と説明した。ガーボード医師は、原告に「あなたの病状は重く、さらに慎重な検査をするために入院するべきでしょう。医師としては、その上で大動脈の検査をしたいけど、それには麻酔をかけて、閉塞を見つけるために大動脈にある物質を注入しなければならない。さらに、胃及ぴ腸管のX線検査も必要となるでしょう」と告げた。ガーポード医師は、もし原告の症状が今後の検査で証明されたら、大動脈の1部を手術によって摘出し、その部分の大動脈を交替することによって症状が改善されると予想されるこの手術によって、彼の脚と背中への血行が改善され、延命されるだろうと言った。ガーポード医師は、原告の循環障害が大変重いことは告げたが、提案された手術をするための幾つかの可能性すべてについては、原告に説明しなかった。ガーボード医師は、この症例についての意見を求める目的で他の医師に病状を報告し、適切な外科手術が行えるように大動脈の閉塞部位や範囲を調べるために大動脈造影の実施を提言した。また、胃および腸管のX線検査も必要であり、大動脈造影では、大動脈の中にX線造影剤を注入して、腹大動脈及びその枝に閉塞があるかどうかを発見するためにX線撮影を行うことを提言した。

     ガーポード医師の提言を受けて、1954年1月6日に原告は入院した。その日の午後に、ガーポード医師は、バリウムを飲んだ後での胸部及ぴ腹部X線検査などを指示した。X線検査の結果、腹大動脈、腸骨動脈及ぴ大腿動脈に顕著な石灰化が認められた。この石灰化像により、原告の病状はかなり古いものだと分かった。ガーポード医師は、書面で、「病院の放射線科医によって大動脈造影を行ってほしい」と要求した。

     普通の手続としては、患者の担当医が基本的にどのような問題のある医療行為を実施するのかを院内医師に告げることになっているので、ガーボード医師は、院内医師であるエリス医師(Dr. Ellis)とアンドリュウス医師(Dr. Andrews)に、以上のように説明した。エリス医師が大動脈造影を行うことになっていた。エリス医師は、外科医として5年間働いていて、大動脈造影のような特殊診断法の責任者である。大動脈造影のためには体内の幾つかの動脈や血管内にX線造影剤を注射しなければならなかった。

     1月7日に、エリス医師は、原告を病室に訪ね、自分が大動脈造影を明日の午後に行うことになっていることを告げた上で、ある薬剤を大動脈に注射して、原告の血液循環系の状態を確認できるかどうかを知るために撮影をすることについて説明した。翌日の午後、エリス医師は原告を診察し、原告に、最初に行ったX線検診の際の腸内バリウムが多少残っているので、大動脈造影は翌日まで延期しなければならなくなったことを説明した。

     1月6日に、麻酔医のハワード医師(Dr. Howard)は原告に会い、原告が麻酔を受けるのに適しているかどうかを決めるために検査した。大動脈造影が延期されたので、1月7日にクラーク医師(Dr. Crark)が原告に会い、明日実施予定であると知らせた。

     1月8日の午後、エリス医師が放射線検査室に行った時に、原告は検査室で横になっていた。その場には、麻酔医ベンゲル医師(Dr. Bengel)と放射線科医師アンドリュウス医師そのほか数人の技師がいた。処置が開始された時、ガーボード医師がその場に来たが、何ら指示を与えず、術式にも加わらなかった。原告は、既に麻酔が効いて眠っていた。エリス医師は、ちょうどガーポード医師が入室した時に、原告の大動脈に注射針を挿入していた。患者の状態が外見上良好であったので、ガーポード医師は退室し、翌朝まで再び患者をみることはなかった。

     大動脈造影は、麻酔医と放射線医師と外科医を必要とする術式である。外科医(エリス医師)の役割は、大動脈内に薬剤を注射するために必要な注射針の挿入であり、使用する薬剤並びに挿入時期について放射線医師と相談することである。中腔の16号あるいは18号注射針が用いられる。中腔部分は、金属性の細長い棒あるいは消息子で塞がれている。その注射針は、直径ほぼ1インチの32分の1で、長さは6インチ。患者は腹臥位に寝かされ、顔は検査台に向けて下向きにして、全身麻酔をかけられていた。使用される造影剤に過敏であるかどうかを検査するために、過敏性検査がこの時に実施される。注射針は第12助骨の下で背中の中心より3ないし4インチ左で、脊柱の左側に挿入される。注射針は、脊柱の正面にある大動脈に挿入するために身体の前面に向かって上向きに挿入される。ここで注入される薬剤は、70%・ウロコン・ナトリウム(70% sodium urokon)である。この物質は、X線の下では人体組織に対して対照的に示される。原告の腕の静脈内に、その物質が1㏄注射された。原告は、この物質に過敏ではなかった。

    外科医が、注射針が大動脈壁を貫通したと感じた後で注射針から金属棒を取り除くと、血液が中腔の注射針を通って流れ出てきた。注射針に注射器を取り付け、30㏄のウロコン・ナトリウムをかなり速い速度で注射した。被告の証人は、最初に注射針を挿入した時に全く困難はなかったので、注射針の挿入は1回だけであったと証言した(しかし、原告は、後述するようにそうではないと主張している)。注射にはほんの数秒しかかからず、直ちに既に定位置にセットしてあった装置により連続的にX線写真が撮影された。X線フィルムがまだ濡れている間に、エリス医師と放射線科のストーン医師(Dr. stone)は診断し始めた。腎動脈分岐部のすぐ下方の下行大動脈の部分で閉塞していた。エリス医師とストーン医師並びに別の放射線医であるアンドリュウス医師は相談した結果、大動脈の閉塞部位がどのくらいの長さの部位であるかを決定するために、さらに別のX線撮影が必要であると考えた。原告は麻酔下にあり、追加のX線撮影が必要かどうかを医師たちが決める間、そのままにしておく習慣になっているので、注射針は挿入したままにしてあった。これは再度注射針を挿入する必要性を避けるためである。医師たちは第2回目の造影剤の注射をする時点との関係で、X線写真の撮影のタイミングを変えることによって、大動脈の枝の血管像を撮影できることを願った。注射針挿入の位置はそのままにして、ウロコン・ナトリウムを20㏄注射した。追加のX線写真を、特に最初の撮影時よりも身体の下方部位で撮影した。これらすべての手技はすべて順調に行えたようで、患者はその日の夕方麻酔からさめた。夕方5時にガーポード医師はエリス医師から、術式は通常通り行われ、うまくいったと報告を受けた。翌朝、原告が目を覚ました時に、下肢が麻酔していることに気がついた。この状態は永続性である。

  1. 過失推定則(res ipsa loquitur)

    裁判所は、過失推定則の法理が適応されるよう指示をした。もしそうでなかったら、あるいは、もしその上に指示が不適切であったならば、判決は、たとえ被告の中のだれかあるいは被告全員に過失の証拠があったとしても、下級審判決を覆えすべきであろう。医療過誤裁判において過失推定則の法理が適用されるようになったのは、比較的近年のことである。それ以前には、「医学は厳密な科学ではなく」「人体は正確に理解通りには影響されないし」「医療者に要求される配慮は、その医療者の専門あるいは地域において共通な知識や技能の程度のものであり」また「最大限の注意をもってしても外科的処置や内科的処置において厄介なことが起こるものである」というようなことが、ある状態のもとで医療者が過失を犯したかどうかを判断する際に最高に考慮された。しかし、次第に裁判所ではいわゆる「黙秘の共同謀議(conspiracy of silence)」に気がついた。医療者がどれほど技術的に不足していようと、過失があろうと、法廷で争っている医療者にとって不利になるような証言を、他の医療者から得ることは不可能に近かった。罪を犯した者がこのようにして自分が行った不法行為に対する民事責任から逃れるばかりでなく、その人の同僚が、再び同じようなことが起こらないように保証しようともしない。このような事実に加えて、通常患者は麻酔のため、あるいは医学的知識に乏しいために、なぜ患者に損害を与える結果をもたらすようなことが起こったのかを知る術もないという事実が、裁判所で、医師が犯すかもしれない過失を推定する力が弱まってしまった理由を説明するように、医師に責任を負わせるようになったのである。

     この法理を適用するようになったのは、別の事実、すなわち、ある内科的処置や外科的処置は非常に1般的となっているので、それらの多くについて、適切に処置が行われれば厄介なことにならないことを素人が知っており、また他の場合には、医療者が、自分らの専門的知識から過失なしによい結果が得られることを知っているという事実からである。この法理を適用する際の最大の困難は、どこで線を引くかを決定することである。

    予期しなかった結果が起こった場合にはすべてこの法理を適用するとしたならば、医学の進歩発展を阻害するであろう。もし障害が起こったら医師は1応過失の罪を課されるとすれば、医師、特に外科医は新しい術式をあえてしようとはしないであろう。医学医療は、ここ数年の間に飛躍的に進歩し発展してきている。40年前いや10年前に実用不可能で致死的と考えられていたであろう技術が、今や成功裏に実施されている。例えば、心臓外科のように、本判例で使用された方法、すなわち、大動脈に針を刺し、閉塞が疑われた部位を決めるために異物を注入する大動脈造影もこの1つで、数年前にはしようと試みることさえなかったのに、回復させるために手術が必要であるのかどうかを決めるのに、大きな価値があるものである。それだけに、非常に大きな責任が裁判所に与えられており、患者と医師の両者に公平になるように、どこでこの法理を適用するべきかを決定しなければならない。素人の常識からも医師の常識からも、過失がなければ1般には起こらないであろうと考えられる結末に至った患者にも公平に、そして、もしかしたら過失がなくても起こりうる結果であり、過失という推定を課すべきではない医師に対しても公平でなければならない。過去の裁判において、この法理が適用された場合と、この法理の適用が否定された場合がある。

     医療過誤訴訟でのこの法理の適用についての賛否両面からの判例の研究によれば、この法理は、素人にとって、医師にとって、あるいは両者にとって、「過失がなければ起こり得ないであろう」ということが常識になっている場合にのみ適用しうることが示されている。

     原告は、この法理が適用されるもう1つの別の状態があると主張している。すなわち、「患者が麻酔下で障害が起こっている場合、特に手技が行われるべき部位以外の患者の人体部位に障害が起こった場合」であり、本件においてこの法理は適用されるべきである。なぜならば大動脈が手技の対象であるのに脊柱に損傷があることが明らかであるから、と主張している。原告は、過去の判例を引用しているので、それらの判例を調査した。その判例には「本法理が適用されたのは、患者が麻酔状態にあったという単純な事実による」とあるが、実はそうではなくて、過失がなければ通常起こらないことを素人も医師も知っていることが起こっていたために法理が適用されたのであった。単に患者が麻酔状態であることを理由としてすべての判例でこの法理を適用したら、医師という専門職に絶望的な義務を負わせることになるであろう。この法理が、医師にどのような事態が起こったのかについて説明するように命じる以上のことを要求すれば、医師は原告による過失の告訴(医師は過失を犯したことを意味している)に勝たなければならなくなるであろう。

     大動脈造影法とそのもたらす結果は、この技術が比較的新しいものであるので、素人の間での常識的事項ではないことは疑いのないところである。ほとんどの素人は1度も聞いたことすらなかった。素人に限れば、この場合の障害が大動脈造影の実施上の過失によってのみ起こるということが常識になっている問題であるとはいえない。このことは、原告のように高度の動脈硬化症にかかっている患者に実施された場合には殊にそうである。今回の事態は、素人の経験の領域を超えた問題であり、それゆえ、この法理の適用の基礎となる常識は存在しない。

     そこで、この法理の適用を必要とする専門的証拠があるのかどうかという疑問が生じてきた。原告側の医学的証人はこのことについて証言していないが、すべての証人は、麻痺は、大動脈造影では稀な合併症であるといっている。しかしこのことは、医師に過失がない場合には通常起こらないということを証明しない。好ましくない結果は稀であるという単なる事実が過失を推定させるわけではない。被告側の証人のだれ1人として、「対麻痺(paraplegia)は過失がなければ起こらない」という証言をしていない。

    ワイリー医師(Dr. Wylie)は、大動脈造影を実施する際に結果とし付随する危険があり、大動脈造影に使われた薬剤の結果として血管が収縮したり閉塞する危険は想定するべき危険の1つであるが、それに対して予防することはできない、と証言した。ナフザイガー医師(Dr. Naffziger)は、危険性は、患者が、正確な診断と将来必要となる治療法を決定することの重要性とを天秤にかけるものであると証言した。原告の証人であるエドミーズ医師(Dr. Edmeads)を例外として、専門家のだれ1人として、対麻痺の正確な原因を決められなかった。要するに、彼らは、次の3つの中の1つが原因であったかもしれないと言ったのである。①ウロコンによる脊髄内の血管の収縮、②脊髄内血流中のウロコンによって脊髄に起こった直接の障害、③原告の病状が、部分的に閉塞した大動脈、動脈硬化症及ぴ数年間続いている高血圧症、下肢の血管及ぴ血液供給の消滅などであったので、急激な前麻痺がいつか起こりうる。彼らの証言により、3つのうちの①と②は、大動脈造影の結果を意味.している。X線写真を調べたエドミーズ医師は、第1回と第2回の注射時の注射針の位置を示すX線写真で、第2回目の時の注射針は脊柱へ供給している動脈の近くあるいは動脈内に位置していたので、ウロコンがそこから脊柱内に注入され、その結果対麻痺が起こったと考えた。被告たちはこの診断に同意しなかった。注射針が間違った部位に挿入されたとするエドミーズ医師の証言のような場合でない限り過失推定則を適用しうる医学的証言はなかった。大動脈造影において、脊髄動脈に注射針を挿入することが過失なくして起こりうるという証言もなかった。証言は、それと反対に、大動脈に注射針を挿入することは全く難しいことではないとした。

     エドミーズ医師の証言がもし信じられるならば、本件は、ディーアマン対プロビデンス病院(Dierman v. Providence Hospital. 31 Cal, 2d. 290, 292)イバッラ対スパンガード(ybarra v. Spangard, 25 Cal, 2d. 486. 490)及びメイヤー対マックナット病院(Meyer v. McNutt Hospital. 173 Cal, 156. 159)における原則内で訴訟が起こされたであろう。患者には麻酔がかけられており、術式による部位とは異なる身体の部分に障害が起こったので、このような結果が通常過失なしで起こるという証明がないので、この法理が適用された。

     本判例では、証言に不1致がある。被告側の専門家の証言では、ウロコンは、大動脈内に適切に注射された場合でも脊髄に悪影響を与えることもありうるし、本例においても、同じような状態が起こったかもしれないといっている。それに対して、原告の専門家の証言では注射針が間違った部位に挿入されたといっている。ところが、裁判所では、陪審に、法律問題として、本判例に含まれているすべての出来事で起こった事柄から、証拠により確立したように過失の推論が持ち上がっていると、訴訟指揮上の命令が出された。陪審は、この法理が適用されるかされないかについて事実を確認する機会を与えられなかった。これは、当事者の権利義務を侵害し、訴訟の結果に影響するような実質的誤謬(prejudicial error)であった。陪審の行為を支持するかもしれない判例についての他の学説の証拠もあったにもかかわらず、このような不適切な指揮上の命令のために陪審がそのような決定をしたのか、あるいは過失が証明されたのか、について判断することができないので、下級審判決は破棄されるべきである。

  2. ガーポード医師の責任

     大動脈造影の実施において過失があったと想定してみても、ガーボード医師自身が実施するという明示の同意あるいはそれを暗示した同意もなく、また原告が提出した過失についての他の学説を支持する証拠もないので、ガーボード医師に責任があるとする証拠が見つからない。ガーポード医師以外の4人の医師は、大動脈造影の実施を担当医が行うことも、実施時に同席することも慣例としてないと証言し、また大動脈造影や他の複雑な診断技術を病院の職員たちが協力して実施するのが習慣となっており、また常時実施しているとも証言した。この証言には全く矛盾がなかった。ガーポード医師が大動脈造影の指示を出しているが(そのような指示を出して何らかの過失があればその責任はあるであろうが)、実施に際してガーボード医師は参加していなかったし、また指示する権利も持っていないので、その医療チームの犯した過失に対する責任はありえない。患者が病院に入院した時には、患者の担当医は、病院の職員たちによって実施されるべき多くの処置を指示する。通例として、検尿、血液検査やX線検査がある。血球計算のための採血で病院職員が誤って患者に感染させてしまったと仮定しよう。担当医はこの過失に対して責任があると主張できない。この場合にも同じことが言える。担当医は自分が管理できない行為について責任を負うことはできない。この議論は、担当医が術式を指示するという明示の同意あるいは暗黙の同意もない時に、習慣上有効であるに過ぎない。

     原告は言う。サンフランシスコ・ベイエリア(Bay area)において実施されている大動脈造影の大部分は、2大病院で実施されており、全例325例中、カリフォルニア大学病院で89例、フランクリン病院で168例、他の病院で68例行われている。これらの2つの病院の習慣であって1般的な習慣ということはできない。習慣と断定することは、根拠に基づかない推論(non sequitur)である。

     原告の大動脈造影以前に325例中何例が実施されていたか記憶は明らかでない。内輪に見積もって、少なくとも半分と考えられよう。適当な数として162例に過ぎないと考えた時、限局された1区域において特殊な方法でこれほどの症例があるとすれば、十分に習慣化されていよう。

     病院によって外科チームが提供されたからといって、その外科チームの能力を判定する担当医の責任を軽くするわけではない(原告の論争点の1つに、ガーボード医師が、この責任を果たしていないということがある)。しかし、術式に加わらず、参加する資格のない担当医に、病院が提供した有能なチームの行為に責任を負わせるのは、1般的に考えて患者にとってよいことではないであろう。患者は、そのような医療チームのおかげで特定の術式に精通しているエキスパートの医療者から恩恵を受けられる。このようなことは、お産を担当していた産婦人科医は、患者に腰椎麻酔をしていた病院から提供された麻酔医師の過失の責任を負わなかった裁判(Seneris v. Haas. supra, 45 Cal. 2d 811, 828-829)によって確立されている。

     本件を再び審理する際に、被告ガーボード医師の責任を問う原告の他の訴えについて審議するのは不必要であると考える。

  3. ガーボード医師の過失をめぐる他の学説についての内容説明

    外科チーム(明らかに被告の病院の職員たち)の過失に対するガーポード医師の責任という争点について多くの指示が陪審に与えられている。これらの指示を読むと、その中の幾つかが学説の内容説明であったかどうかは言い難い。法律問題として、ガーボード医師は外科チームの過失に対して責任があったかどうか、あるいは、陪審は、責任があるとする事実を決定するべきであったかどうか。陪審は本件について明瞭に説明を受けていなかった。ガーボード医師が、大動脈造影の術式に関与するという意思表示もせずあるいはほのめかしもしない状態で、通常行われている習慣や慣例に反して関与して起こった過失に対する担当医の責任は、慣例からみて担当医に術式を監督する権利があったかどうかにかかっている。2つの学説の内容説明、すなわち第25番「派遣された使用人法理」(borrowed servant doctrines)と第26番「外科チームはガーボード医師の指図の下で彼を援助していた」と推定しているようであるので、本件に関するすべての他の学説の内容説明を読んでさえ疑問を残し、陪審が、次のことを理解していたかどうか疑わしい。陪審が法の支配(rule of law)に基づく事実を見いだすべき出来事においてのみ、学説の内容説明が適用されるということを理解していたかどうか疑わしい。原告は、ガーボード医師の責任について幾つかの学説を提示している。その中の1つは、担当医である被告ガーボード医師は、1般的慣習にかかわらず、外科チームの行為に対して責任があるという説である。他の学説のほとんどは、証拠をめぐる意見の衝突であり、例えば、ガーボード医師が自分自身が大動脈造影を実施するか指図するという明示契約をしたのか、黙示契約をしたのかどうか、またガーボード医師が原告に実施される大動脈造影の方法について説明したかどうか、というような内容である。これらが陪審による尋問であった。

  4. 実験と製薬会社の小冊子

    もし外科医が患者の治療について実験しようとするならば、患者への熟練していない治療法によって起こされる損傷に対しても責任を負うべきことになるとの指示が陪審に与えられていた。次いで、もしウロコンを製薬会社の小冊子で勧められている容量以上に注射し、もし、陪審がそのような注射は実験に相当するとしたならば、患者はまずそのような実験をすることを知らされた上で、同意をしなかった場合には、過失の罪を犯したことになるという指示が与えられていた。ここで最初の問題として考えることは、製薬会社の小冊子の証拠能力である。その小冊子は、ウロコン・ナトリウムの製造会社が出版したものである。その小冊子には、成人における大動脈造影には「70%・ウロコン溶液の10㏄から15㏄が適量である」とあり、さらに「大動脈造影は24時間以内に反復実施するべきではない」と述べられている。外科チームでは用語の意味の取り方が異なっていた。原告は2回目の注射を否定すると主張したのに対して、被告たちは、2回目の注射針の挿入を否定した。最初の注射後、注射針は同1部位に残っていて2回目の注射が行われたので、少しも指示書に違反していないと主張した。反対意見のなかった証拠として、必要がある場合には2回目の注射をするのは慣例となっていることであった。原告の症例では、最初に30㏄、2回目が20㏄、計50㏄が注射された。ワイリー医師は慣例として最初に50㏄使っていると証言した。ウイリアムズ医師(Dr. Williams)は、通常使っている容量は30㏄から70㏄であると証言し、アダムス医師(Dr. Adams)は50㏄が慣例であり、2回目にさらに50㏄注射していると証言した。本件で使用された容量が不適当であったという専門家の証言はなかった。さらに意味あることに、製薬会社の小冊子の中で心臓そのものの造影に必要な造影剤としてウロコン50㏄の使用が勧められていたのである。被告及ぴ法廷助言者(amicus curiae)は、製薬会社の小冊子は証拠能力のある証拠ではない主張した。そして彼らは、製薬会社の勧めば常に控えめであり、じきに使い物にならなくなる。製薬会社は、習慣として、新薬が市販されてしばらくすると、それを使用している医師たちが自分たちの経験や出版された論文に依存してその薬剤を使うようになると期待している。被告たちは、「製薬会社は、製品についての小冊子を作成するけれども、それらの薬剤を自分らの手で臨床的に使用したことがないにもかかわらず、もし医師たちが製薬会社の指示に無批判に従うように要求されていたとすれば、抗生物質やその薬剤を有効な投与法で使用したからこそ起こった奇跡的発展は起こらなかったであろう」と主張した。今回の事実審理に製薬会社の小冊子を証拠として提出することについて異議はなかった。ただし、争点事実は、再度の正式事実審理において、裁判所の利益のために決定されるべきである。

     ジュリアン対バーカー(Julien v. Barker. 1954. 75 Idaho 413)では、過失で投与されたと告発されている麻酔薬の製造元で発行した使用書を証拠能力があるとした。裁判所では、内科医や外科医による当薬剤の使用に際して標準的あるいは承認された使用法について争う余地のない証拠ではなく、主た、使用書にある使用法から逸脱したら過失となるという決定的な証拠でもない。しかし、製造元が提供した適当な使用法であることの1応の証拠となり、使用法の方針を示し、薬剤の使用に伴う何らかの危険性についての警告を与える資格があると考えるべきである。それ故、証拠能力があるとしても、法律問題として、この薬剤を使用する医師に要求される標準的治療法として立証することはできない。陪審は、本裁判における他の証拠とともに、この特定の医師に要求されている標準的治療法に相当しているかどうかを決定するように考えるべきである。この件に関する裁判所の指示は、この点に限定されるべきである。製薬会社の勧めから外れているという点だけで、しかもそのようなことが、ある1定地域で医療をしている医師たちが慣習的に行っている場合には、勧めに従わないのを「実験」とは言えない。本例においては、実験であった証拠もなく、実験についの指示も与えられていなかった。証拠の裏付けのない指示を与えるべきではない〔ローデンバーガー対フレデリクソン(Rodenberger v. Frederickson, 111 Cal. App. 1d 139, 142)]。

  5. 指示

    〔専門医を呼ぶ義務〕

      裁判所は陪審に、慎重な開業医ならそうしたように、専門医を呼ぶことは1般開業医の義務である(エリス医師による大動脈造影について論じたのではない)、と指示をした。このような指示を与える根拠が理解しがたい。証拠によれば、原告の医師であるカーソン医師(Dr. Carson)が患者をガーボード医師に紹介した。それは、ガーボード医師が大動脈造影が診断法である脈管外科領域の専門医であったからである。この分野では、ガーボード医師が高名であることも示された。彼は、ウロコン・ナトリウムが使われだした以前に、大動脈造影の多くの経験があった。彼は、製薬会社の小冊子に何が書かれていたか知らなかったり、米国医師会が出版した「疾病並びに手術の標準的専門用語」に精通していなかったり、大動脈以外の身体の他の部位に注射されたウロコンの作用について知らなかったために無知が非難された。反対意見のない専門家の証言によれば、条件下で行われた大動脈造影は健全な医療行為であった。ガーボード医師自身が専門医であり、前述のような指示を陪審へ与えることを正当化する証拠は全くなかった。

    〔開示の義務〕

      原告、その妻と息子は、大動脈造影が行われることについて何ら情報を与えられなかったと証言した。エリス医師は、大動脈造影の方法や起こる可能性のある危険性について詳しく説明しなかったことは認めたが、この証言を否定した。裁判所では、患者への医師の開示の義務について、陪審にむしろ広範な指示を与え、患者の権利や利害に相互に影響を与えることや起こりうる外科的危険(risk,hazard and danger)に関するすべての事実について開示の義務があるとした。

       患者が医師の提案した治療法に対して知的な同意をする基礎を作るのに必要な事実について、もし医師が、患者への義務に違反して、何も説明しなかったならば、医師は責任を負わなければならない。同様に、患者に同意をさせるために、医師は、処置や手術について分かっている危険性を最低に見積もって話してはいけない。と同時に、医師は、何よりも患者の福祉を最も重視しなければならない。これらのこと自体が、医師を次の2つの選択肢中から1つを選ぶ立場に置く。1つ目の選択肢は、どんなに危険性の可能性が少ないにしても、患者に対するいずれの処置や手術でも起こりうるすべての危険性について、医師が説明することである。このようにすることによって、すでに非常に心配している患者を警戒させる結果になりやすく、実際にはごく少しの危険性しかない外科手術でも受けることを拒否するかもしれない。不安そのものの生理的結果のために実際に危険性が増大する結果となるかもしれない。2つ目の選択肢は、個々の患者は、それぞれ異なる問題を持っており、患者の知的精神的状態が重要であり、ある症例においてはそれが決定的になるであろう。それゆえ、危険性の内容について説明する時には、インフオームド・コンセントに必要な事実の十分な開示に調和する程度の慎重さが必要であることを認識すべきである。裁判所からの陪審への指示を修正して、医師にはインフォームド・コンセントに必要な事実の十分な開示と、もちろんそれに調和した自由裁量とがあることを告げるべきである。

    〔証拠を提出しなかったこと〕

       被告が証拠を提出しなかったことに関して、裁判所は陪審に、次の3つの指示を与えた、1つは、総括的指示書であり、他の2つは、被告に関する指示書である。これらの指示書は、陪審たちに与えるべきではなかった。これらの指示書を正しいとする証拠が見つからなかった。被告は、手術に従事した証人をだして、障害の原因について説明する努力をしている。被告が過失の罪が課される原因となる事実についての説明に成功するか、無効にするかの判断は陪審の問題であると、陪審たちは告げられていた(被告の義務や責任に関する多くの指示書が、不必要に繰り返されていた)。

     過失推定則が適用されたかされなかったか、を示す何物もなかったので、被告による証拠排除も証拠不提出もなかった。

  6. 証拠としての医学教科書

     再度の正式事実審理において、間違いなく争点となるであろう尋問は、医学教科書、小冊子や定期刊行物の証拠能力である。グラックスタイン対リプセット(Gluckstein v. Lipsett, 93 Cal, App.2d 391)において、この問題について論じているカリフォルニアの判例について審査し、主尋問において医学教科書は証拠能力がないと判示した。反対尋問において、専門家証人の意見が、全般的にあるいは特に医学的論文に基づいている場合にのみ証拠能力があるとした。この原則は、その後全く変わっておらず、証人自身の意見が、医学論文、教科書あるいは小冊子、質問の1部としてそれらからの抜き書きに基づいていない証人に対して、専門家証人の意見を読んで聞かせることは許していない。

  7. 医療過誤判決に関して

     訴訟における主張の陳述において、医師に対して、あるいは弁護士に対し,て起こされた医療過誤行為に与えられた判決について、又はそれらの行為に対する保護について弁論することは不適切である。

* 判決は、下級審判決を覆した。


星野一正
(京都大学名誉教授=日本生命倫理学会初代会長・現常任理事)