民主化の法理、医療の場合 63
時の法令1614号、2000年3月30日
編集・発行、大蔵省印刷局

最高裁、患者の自己決定権を尊重
エホバの証人輸血事件で患者勝訴


まえがき

    平成一二年二月二九日、最高裁判所は、「平成一〇年(オ)第一〇八一号−第一〇八四号損害賠償請求事件」において、信仰上の理由から担当医に反復して輸血拒否を申し出た「エホバの証人の信者が原告として、自らの意思に反して手術中に無断で輸血してしまった医師たちと争った裁判において、次のような判決を下した。

    「医療の主体として無輸血治療を選択した患者の自己決定権を侵害した上に、患者に事前説明をせずに術中に輸血をしてしまった医師は患者の人格権を侵害したもの」として、医師らの上告を棄却した。よって、東京高等裁判所における控訴裁判の判決(判例時報一六二九号三六−四二ページ参照)が確定した。

    平成九年三月の東京地方裁判所は「平成五年(ワ)第一〇六二四号損害賠償請求事件」に対し、「手術中にいかなる事態になっても原告に輸血をしないとの特約を合意することは、医療が患者の治療を目的とし救命することを第一の目標とすること、人の生命は崇高な価値のあること、医師は患者に対し可能な限りの救命措置をとる義務があることのいずれにも反するものであり、それが宗教的信条に基づくものであったとしても、公序良俗に反して無効であると解される。よって原告主張の特約は無効である。」(傍点"アンダーライン"筆者)と被告勝訴の判決を下した。この判決は、国際的観点からしても時代後れの裁判官の判断によるもので、国際的通念に通用しないものと批判された。

    原告は平成九年八月一三日に死亡していたので、原告の夫や長男らが控訴人として、東京高等裁判所に控訴した。訴訟代理人弁護士の一人である野口勇弁護士の依頼を受けて、筆者は、控訴側の証人となることになり、平成九年八月二九日付けで、「平成九年東)第一三四三号損害賠償請求控訴事件」における『意見書』を提出して個人的意見を具申した。この意見書は、筆者の医師としての意見や一般市民感情からの意見ではなく「インフォームド・コンセント」の法理にのみ基づいた意見とした。

    平成一〇年二月九日に下された判決により、幸い、控訴審においては、原告の逆転勝訴として、控訴人側の主張が認められたので、筆者の具申した意見も何らかの貢献をさせていただいたのではないかと思われるので、記録に残しておく。

最高裁判決の中の重要意見

  1. 患者が輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない。

  2. 輸血を伴わない手術を受けることができると期待して入院したことを上告人らが知っていた事実関係の下では、医師側としては、手術中の輸血が必要な事態に至ったときには輸血するとの方針を採っていることを説明して、患者が入院を継続して上告人である医師らの下で本件手術を受けるか否かを患者本人自身の意思決定にゆだねるべきであったと解するのが相当である。

  3. 医師側の方針を説明せず、輸血する可能性があることを告げないまま本件手術を施行し、医師側の方針に従って輸血をしたのである。上告人である医師らは、右説明を怠ったことにより、患者が輸血を伴う可能性のあった本件手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪ったものといわざるを得ず、この点において同人の人格権を侵害したものとして、同人がこれによって被った精神的苦痛を慰謝すべき責任を負うものというべきである。

  4. 上告人である国に対して、医師らの使用者として、患者に対し民法七一五条に基づく不法行為責任を負うものといわなければならない。 (傍点"アンダーライン"著者)

控訴審における証人の意見書

〔宛名・署名印等略〕

〔まえがき〕

    私は、医師・産婦人科医として八年間日本で勤務し、昭和三二年一月に医学博士の学位を取得して間もなく渡米しまして、ニューヨーク州スケネクタディ市にあるカトリック系のセント・クレアー病院の産婦人科主任レジデントとして赴任致しました。昭和三四年に米国コネチカ州ニューヘブン市にあるイエール(Yale)大学医学部助手として採用され、二年後講師に昇格しましたが、米国の居住ビザの延長が認められず、一年間だけで講師を辞して、昭和三七年にカナダに永住居住権を取得して移住しました。以後一五年間カナダの医療センターで勤務致しました。

    昭和五二年の秋、京都大学からのお招きを受けて二一年振りに帰国して、京都大学医学部教授として赴任致しました。平成二年に、京都大学を定年退官し、名誉教授の称号を頂きました。退官してすぐに、現職(京都女子大学宗教文化研究所教授・国際バイオエシックス研究センターディレクター)につきまして、現在に至っております。

    私が、渡米した昭和三二年に、米国での医療過誤裁判の判決文に初めてインフォームド・コンセントという用語が使用されました。それから私が北米の医療センターで勤務していた二〇年間に、米国では裁判基準としてのインフォームド・コンセントの法理が育ち確立致しました。また、一九六〇年代に入ってから起こりました『患者の人権運動』によりまして、インフォームド・コンセントの法理はますます重要となりますとともに、この運動を支援する多くの学者たちの努力によって、従来尊重されてきた「ヒポクラテスの誓い」を超えた「新しい医師と患者の人間関係の基盤となる生命倫理」が求められました。私が帰国する六年前の一九七一年には、この新しい生命倫理学は、新語の英語が創作されまして「バイオエシックス」と命名されました。

    それゆえ、患者にとって極めて重要な「インフォームド・コンセントを中心とするバイオエシックス」は、すべて私の北米生活中に生まれ育ち、確立されたものでございます。そして、米国から、世界の各国に広がっていったのでございます。

    昭和五二年に帰国致しましてから、本職の医学教育・医学研究のかたわら、私は、わが国へ、バイオエシックスやインフォームド・コンセントの紹介並びに普及に努力を重ねて参りました。京都大学にまだ在職中の昭和六三年には、私は、バイオエシックスに関心の高い仲間とともに、「日本生命倫理学会」の設立に努力し、設立準備の段階から「企画委員長」として計画の立案を含め、学会の基礎固めに尽力致しました。設立後の数年間、役員の選挙規則の作成・確立に時間が取られましたが、最初の役員選挙で、私が初代の代表理事に選出され、会長を兼務するようになり、その後、五年間会長を二期務めて学会の基盤を固め、平成八年の秋、会長を辞しました。

    以上のような、日本人としては大変ユニークな経歴と経験を持っておりますので、今回、本件についての判決に対する意見具申し上げることとなったと理解しております。それゆえ、今回は、医師としてよりも、バイオエシックス並びにインフォームド・コンセントの専門家としての私の意見を、僭越ながら具申させていただきたいと存じます。

〔意見の根拠となる理論並びに法理〕

    バイオエシックスの原理として、患者の真実を知る権利、選択権、自主的判断権(オートノミー)、自己決定権、同意権などが重要であり、さらに拒否権や同意撤回権、プライバシー権も十分に考慮されなくてはなりません。それに対応して、医師には「事実を説明する義務」「選択肢を提供する義務」「オートノミーを侵害してはならない義務」「医学的侵襲を患者の心身に与える前に同意を得なければならない義務」「患者のプライバシーを医師の独善的判断で侵してはならない義務」などがあります。これらは、すべてインフォームド・コンセントの法理でもあります。

    本件の被告たちは、これらの理論や法理を無視していると申しても、過言ではないと存じます。以下、事例を挙げて、意見を述べさせていただきます。

〔エホバの証人の信仰に対する日本国憲法上の保障〕

    申し遅れましたが、私の家系は浄土宗ですので、私は、エホバの証人の宗教問題に関しては、発言するにふさわしい知識も能力もありません。しかし、日本国民として、日本国憲法第二〇条(信教の自由)に関連して『その信仰に反する行為を強制することは許されない』という信念は持っております。

    基本的に『エホバの証人の信者たちが、輸血を受けることは、信仰上、できないという信念を持っていること』は、周知のことであります。本件において、エホバの証人の信者で、知的精神的判断能力のある成人である原告自らが『輸血を受けることは、信仰上できないという信念を持っている』ことを、被告たちに訴えていて、被告たちも当然知っていました。それにもかかわらず、患者の同意を得ることなしに、輸血してしまい、その結果、原告の信教上の信仰を侵害したことは、それ自体が、『その信仰に反する行為を強制することは許されない』の憲法の精神に反しており、バイオエシックスの原理からしても重大な問題であると存じます。

〔輸血を合法化しようとする被告たちの考え方〕

    被告たちは『原告に対して、本件手術の際にいかなる事態になっても原告に輸血をしない特約を合意した事実はなく』、『これらは、原告が一方的に希望を伝えたに過ぎない』と主張していると記載されております。

    被告医師らは、原告患者が「エホバの証人の医療機関連絡委員会」のメンバーの訴外Aや訴外Bの協力を得て、「輸血なしで手術をしてくれる医師」を探した上で、診察要請したことも知っているのです。

    その上、判決文によれば、裁判所が本件手術を主たる治療内容とする診療契約が締結されたと認定されている平成四年七月二八日に原告が『輸血を拒否する意思表示』を被告医師甲にしていたのを始めとして、同年八月一八日の入院日には被告乙に、同年九月七日には被告丙に、同年九月一一日には被告乙に、同年九月一四日にはこれら三人の被告医師に口頭で明示の意思表示をしているばかりか、同年九月一四日にはこれら三人の被告医師の同席のもとで、輸血をしないこと及び原告が輸血をしなかったために生じるいかなる結果についても被告医師らの責任を問わないことが記載された『免責証書』を被告甲に交付して、「輸血をしないで欲しい」旨を伝えたところ、被告甲は「はい、分かりました」といって免責証書を受け取り、被告乙及び被告丙は被告甲に同調した、と判決文には記載されております。

    インフオームド、コンセントのための医師と患者の間の意思の疎通のために、これ以上反復した同一内容の患者(原告)の意思表示を必要とするでしょうか。被告たちは『これらは、原告が一方的に希望を伝えたに過ぎない』と主張しているとのことですが、では、なぜ、被告甲は、原告に「はい、分かりました」といって免責証書を受け取り、被告乙及び被告丙は、被告甲に同調したのでしょうか。

    しかも判決文によれば、平成四年九月七日、被告丙が「手術には突発的なことが起こるので、そのときは輸血が必要です」「輸血をしないで患者を死なせると、こちらは殺人罪になります。やくざでも、死にそうになっていて輸血をしないと死ぬ状態だったら、自分は輸血します」と言ったところ、原告は「死んでも輸血をしてもらいたくない、そういう内容の書面を書いて出します」と言ったが、被告丙は「そういう書面をもらってもしょうがないです」と答えた、と記載されております。被告丙は、なぜ同年九月一四日に、被告甲が「はい、分かりました」といって免責証書を受け取った時に、被告乙とともに被告甲に同調したのでしょうか。それは、被告丙は「そういう書面をもらってもしょうがないです」と思っていても、免責証書を教授が受け取ったのだから、教授の方針に従おうと考えたからなのでしょうか。

    インフォームド・コンセントのための医師と患者の意見の交換に際して、互いに言ったの言わなかったという争いを避けるために文書を交換することが行われてはいますが、平生、お互いを信用し合って口頭の意思表示でも十分機能していることが多く、それでこそ、信頼関係のある医師と患者の人間らしい関係といえるのではないでしょうか。

    ところが、本件の場合には、口頭のみならず、免責証書まで渡されており、受け取った被告ら全員が承諾したにもかかわらず、輸血をされたのですから、患者である原告は、医師に裏切られたと考えるのが常識ではないでしょうか。少なくともバイオエシックスの面から言えば、被告たちの患者に対する行動は、極めて非倫理的であり、医師への不信感を募らせる残念な行為であったと言わざるを得ないと存じます。

〔被告たちは、患者の同意を得ていない医療行為を行った〕

    前述のように、原告たちが頻回に繰り返し、被告の医師たちに、宗教上の理由によって輸血を受けるわけにはいかないと、輸血を拒否する明示の意思表示をし続けていたにもかかわらず、原告は、手術前にはもちろん、手術中にも輸血をすることを全く知らされずに、あれほど拒否し続けていた輸血という医学的侵襲を無断で加えられてしまった。この事実を原告は、手術後退院する前まで被告らから知らされなかった。もちろん、手術後直ちに輸血したことを被告たちが原告に知らしていたにしても、被告たが、原告の同意を得ずに輸血という医学的侵襲を原告に加えたことは、インフォームド・コンセントの法理からしましても許されるべきことではなく、極めて重大な法的問題だと思います。

    本件手術が始まるに際し、被告医師らは、輸血用として三〇〇〇ミリリットルの血液を準備した、と判決文に明記されておりますので、輸血が必要となる可能性はかなり高いと被告医師らが見込んで手術を始めたことは疑う余地のないところであり、術中輸血が「緊急輸血」であったという主張は、了解に苦しむものであります。インフオームド・コンセントの法理からすれば、緊急状態における輸血の可否についてあらかじめ患者の意思を確かめておらず、かつ患者本人が麻酔下で判断能力がない状態で手術を受けている最中に、予想外の多量の出血が起こって手術中に緊急手段として輸血が必須となった場合には、患者の同意を得ることは不可能であるので、家族に連絡して代理意思決定をしてもらう必要があり、もし家族に代理意思決定を得たくても直ちに連絡もとれない場合に限り、同意なしに緊急輸血をすることもやむを得ないと判断されます。しかしこのような特殊な条件の下に輸血をした場合には、医師は、術後、直ちにカルテに、緊急手段として輸血をせざるを得なかった病状を明細に記録し、その際に、患者本人が麻酔下で判断能力がない状態で手術を受けている最中にあり、輸血をすることの同意を得ることは不可能であった上、近親者や他の親族に連絡もとれなかった状況を記録しておかなければならないのです。手術後、患者が麻酔から覚めて意識が明瞭になったら直ちに、カルテに記載した内容を読んで聞かせた上で、患者が説明を医師から受けたことを証明する署名を受けなければならないのでして、さもなければ、同意なく緊急処置(輸血を含む)した行為は、緊急避難による違法性阻却の対象とならないことになっております。

    判決文によれば、被告医師らば『本人から求められれば本件輸血の事実を伝える考えでいた』とありますが、それでは、違法行為になるのは明らかだと思われます。

    『平成四年一〇月ころ、本件輸血の事実を聞きつけた週刊誌の記者が医科研に対して取材を申し入れたともありますので、これがきっかけとなり、原告に話す気になったのではないかと思われますが、実際に原告に話したのは、同一一月六日の退院を近日中にひかえた説明の時でした。

    判決文の中で、術後の説明の際に、「輸血に関しては、原告、訴外A及び訴外Bから質問はなく、被告甲は、本件輸血の事実を告げることが原告のためにならないと考えて、本件輸出をしたとの説明をしなかった」と記録されております。この記録の中に、記録違いかと目を疑う記録が残されております。「被告甲は、本件輸血の事実を告げることが原告のためにならないと考えて」というところでして、「原告のため」となっているところを「被告のため」としたほうが、意味がよく通じると思ったからなのでした。原告に告げれば原告は怒り、心頭に達するでしょうが、原告のためには知ってよかったといえる内容です。しかし、告げて困るのは被告らのほうだと思います。「医師が患者に説明しないほうがよい場合しというのは、患者の生きる意欲を失わせるような特別の場合に限られており、医師にとって都合の悪いことだからという場合は該当しないのが普通です。しかし、本件の場合には、患者本人の同意なくして医師が無断で勝手に輸血してしまったのですから、前述のように、術後可及的速やかに患者に理由をつけて納得のいくように説明する義務があるのに、その義務をさえ履行していないことのほうが重大な問題だと思います。

〔医師が患者に医学的侵襲を加える前に必須の同意について〕

    米国においては、医療過誤訴訟において、コモン・ローにより「患者の承諾なしに医師が医学的侵襲を患者に与えればbattery(暴行)をした」として罰していたのですが、前にも述べましたが、一九五七年、ちょうど私が渡米して病院で勤務し始めた年ですが、その年の裁判の判決で、はじめて「インフォームド・コンセント」という用語が使われました。

    次いで一九六〇年の裁判で、医学的侵襲についての承諾を得る前にどのような内容の情報を患者に提供し、説明する必要があるかについて論じられ始め、「情報の開示」と「危険性の警告」を患者にする必要があるとするnegligence(過失)の法理が適用されたのでした。その後、判例を重ねるごとにインフォームド・コンセントの法理は充実し、一九七〇年代のはじめに確立されました。

    本件におきましては、被告医師らは、輸血という医学的侵襲のある行為を、患者があらかじめ拒否していて、承諾するはずのない医療行為であるにもかかわらず実施することを想定して、前もって十分に説明して同意を得る努力もせずに手術中に実施してしまうばかりか、手術直後に、理由をつけて詳しく説明する義務を放置していたことは、上記のbatteryとnegligence〔暴行と過失〕という犯罪行為を重ねて、インフオームド・コンセントの法理上の重大な過誤を犯してしまったと言わざるを得ないのです。

〔被告医師たちの基本方針の誤り〕

    被告甲の「エホバの証人の信者である患者の治療に関する陳述書」によれば、『当病院では、エホバの証人の患者のごとく輸血及び血液製剤の使用を拒否している患者の治療について、統一的治療指針はない。従って、我々の考えは次のごとくである。』として、被告甲らは、次の三項目をあげております。

    1. 診療拒否は行わない。

    2. エホバの証人患者が教義の立場から、輸血及び血液製剤の使用を拒否していることは尊重し、できるだけその主張を守るべく対応する。

    3. しかし輸血以外には生命の維持が困難な事態にいたったとき、患者及び患者家族の諾否にかかわらず、輸血を行う。

    バイオエシックスとインフォームド・コンセントの法理からすれば、これら三項目は、あまりにも自分勝手な言い分だと言わざるを得ないと思います。

    「(1)診療拒否は行わない。」が何を意味しているかはっきりしないのですが、「輸血を拒否するエホバの証人の患者が来ても診療をします」という意味に取りますと、問題が生じます。第一に、医師らが、必要と認めるならば輸血をする方針だからなんら問題がない、というように解釈することが可能だからです。これでは、最初からインフォームド・コンセントに対する無謀な挑戦で、前述のbatteryもnegligenceも知ったことではない、やるならやってみよという姿勢ではないでしょうか。バイオエシックスでは、「患者本人の意思を尊重して、万一輸血をしなければ生命の危険が生じた場合に輸血できなくては困りますので、患者は輸血なしで手術をして下さる医師のいるところに転院して下さい」という選択肢を出すことは可能です。患者には選択権がありますので、『転院のすすめ』という選択肢を、選んでもらうようにすることができます。これは決して「診療拒否」ではありません。

    事実、本件判決文によれば、本件の原告患者は、立川病院の医師らから「ここではあなたの手術は輸血なしではできません」と言われて、転院を示唆された、と記録ざれております。

    「(2)エホバの証人患者が教義の立場から、輸出及ぴ血液製剤の使用を拒否していることは尊重しできるだけその主張を守るべく対応する」とありますが、根本的な間違いがあると存じます。エホバの証人の患者たちは、できるだけ輸血をしないことを希望しているのではなく、絶対にどんなことがあっても輸血をしないで下さい、とお願いしているのです。なぜ、これ程までにして、被告甲らは患者を逃したくないのでしょうか。もちろん、輸血なしで無事に手術をしていただけるエホバの証人の患者も出るでしょうが、万一輸血が絶対に必要となったときに、患者を裏切ることになることが分かっていて、エホバの証人の患者の危険な、手術を引き受けるのは、医師の倫理にもとることだと思います。

    「(3)しかし、輸血以外には生命の維持が困難な事態にいたったとき、患者及ぴ患者家族の諾否にかかわらず、輸血を行う」という内容は、正気の沙汰とは思えません。術前から、エホバの証人の患者は、いかなる事態になろうとも輸血を拒否する明示の意思表示をしているのですから、『諾否にかかわらずと書くべき文章だと思います。『エホバの証人患者の反対を無視して輸血をする』と開き直られてしまいますと、倫理も法律も全く説得力に欠けた無力のものだとため息が出てしまいます。

    このような独善的でパターナリズム(paternalism)な医師の考え方や行為・行動に反対して、一九六〇年の半ばころから「患者の人権運動」が米国で盛んになったのでした。その結果、インフォームド・コンセントも確立され、バイオエシックスも新しい学問として誕生したのでしたが、それから三〇年以上もたった現在の日本の最高学府の教授たちが、このような三項目を作って、基準としておられることに、悲しみを禁じ得ません。

むすび

    今回の判決は、わが国の最高裁判所が、患者を医療の主体として患者の自己決定権を認めるのみならず、医師の説明義務と患者の同意を含む法理を正式に採用した画期的な判決であった。

    最高裁判所の判決における法理は、まさしく「インフォームド・コンセントの法理」と同じ法理であり、その意味において、今回の判決は、わが国の最高裁判所が「インフォームド・コンセントの法理」と同じ法理に基づいて下した画期的なものであり、わが国の判例史上、極めて重要な足跡を残したものである。


星野一正
(京都大学名誉教授=日本生命倫理学会初代会長・現常任理事)