時の法令1488号,66-71,1994年12月30日発行 民主化の法理医療の場合

本人の意思による死の選択
植物状態患者への栄養補給の停止

星野一正


  1. 現在の死生観の多様化

      末期状態になったときにどのように死を迎えたいかについて、患者たちは選択するようになってきた。

      麻酔学や蘇生学が進歩して高度の生命維持装置が開発されたため、医学的な死には、従来の、心臓死のほかに、新たに脳死が加わり、人々の死についての考え方が変わってきた。

      一九六七年一二月に、世界で最初の心臓移植が南アフリカで行われて以来、臓器移植は、従来の死体臓器移植と生体臓器移植にさらに脳死臓器移植が加わって盛んになり、心臓、肝臓、膵臓や肺などの移植も可能になった。生命維持装置により元来の寿命を越えて生き続けられるようになり、さらに各種の臓器移植によって機能不全の臓器は正常な臓器と入れ替えられて、以前は寿命が来て死ぬところを医療の介入によって延命が可能となうてきた。このような医療を受けることができるようになれば希望する患者も増え、患者の希望があれば、可能な限り希望された医療をしてあげるのが、通常の医師の使命である。ただし、すべての先端医療技術を日常の臨床に応用してよいわけではなく、医学的に、また生命倫理学的に十分検討した上で作成し承認された計画に基づき、きちんとしたインフォームド・コンセントにより理解し同意した被験者について実施する「ヒトを対象とした実験的な臨床応用」から始めなければならない。

      このような時代の変化に伴って、死の迎え方についての患者や家族の考え方にも変化が表れるようになった。患者のなかには、金に糸目をつけず可能な限りの積極的治療や延命治療を駆使してでも、一分でも一秒でも長く生き続けさせて欲しいと願う人もおり、「生命は神聖」であるから、医学医療の粋を凝らし万全を尽くして、可能な限り患者を長く生き続けさせることが医師の使命であると固く信じて、延命治療に全力を尽くす医師もいる。

      一方、人生の最後の期間をいかによく生きて死を迎えるかという自己の生命の質(QOL)の見地から考える人々もいる。そのような人々は、自分が不治の病でしかも植物状態となって集中治療室に隔離され、生命維持装置をはじめ脳波、心電図などの器具にチューブやコード、ケーブルなどで繋がれて、俗にスパゲッティー症候群などといわれるような状態にされて生かされ続けている生命が果たして神聖であり、尊厳ある死を迎える人間の姿であろうかと疑うようになった。

      ちなみに、植物状態患者は、何らかの原因で意識を失ってほとんど眠り続けでおり、自発的に何かをすることはできないが、呼吸中枢のある脳幹や自立神経系などは正常であるので、自発呼吸をしており、血液循環、消化吸収や排尿、排便もあり、また無意識に目を開けたり閉じたりすることや、口の中に食物を入れると反射的に飲み込むこともある状態になる。

      意識を失って入院した当初は、その原因を追及しながら治療をしていくうちに意識が戻ることがある。しかし、三か月以上も同じような状態が続くと、「植物状態」という診断がつけられ、水分と栄養の補給や対症療法をしながら経過を観察するようになる。

      植物状態が六か月以上も続いて、意識の回復する望みがほとんどなくなったら「持続的植物状態」(persistent vegetative state : PVS)と呼ばれるようになる。

      さらに長く植物状態が続くと「永久的植物状態」(permanent vegetative state : PVS)と呼ぶ場合があるが、永久かどうかは、結果を見なければ分かるはずがないので、こちらのPVSには異議を唱える専門家が多い。

      植物状態の患者では、呼吸中枢に障害がないので、人工呼吸器や生命維持装置を付けなくとも自発呼吸があり、その点、自発呼吸のない脳死者とは根本的に違う。

      救急治療室に迎ぴ込まれたときには植物状態になるのか脳死するのかが分からないので生命維持装置を付けられることが多い。しかし、脳死ではなく植物状態になると診断されれば、生命維持装置を外しても呼吸困難を起こす危険はない。

  2. クインラン事件

      米国ニュージャージー州で起こった植物状態の患者をめぐっての有名な事件がある。

      一九七五年四月、カレン・アン・クインランという二一歳の娘さんが精神安定剤を服用した後でパーティーに行き強いお酒を飲んで倒れ、意識を失って宿院に運ばれた。その後、生命維持装置を付けられたまま三か月たち持続的植物状態となった時に、生命維持装置を付けられて機械の一部のようにされたまま、無為に時を過ごしている娘が次第に別人のように変わってきて、見るに忍びなくなった両親が、カレンが元気なときに「もし私が植物状態になるようなことがあったら、生命維持装置をつけないで、私らしい状態にしておいて欲しい」と言っていたのを理由に、生命維持装置を取り外して欲しいと医師に要請した。医師が同意しなかったので両親は、医師に取り外すように命令して欲しいと、ニュージャージー高等裁判所に訴えた。

      一九六七年に、高等裁判所は、植物状態の患者カレンから生命維持装置を取り外すことを認める世界で最初の判決を行った。しかし、担当医師が取り外そうとしなかったので別の宿院に転院させて、カレンから生命維持装置を取り外してもらった。カレンは、その後九年間生き続けて、一九八五年六月に寿命が来て他界した。

      カレンの例で見る通り、持続的植物状態の患者は、死期が迫っているとはいえず、また、まれには意識がある程度回復する場合もあり、終末期患者とはいえないので、持続的植物状態の患者のケアをターミナル・ケアとして論じるわけにはいかないのである。

  3. クルーザン事件

      一九八三年一月、米国のミズーリー州で起こった自動車事故の後、生命維持装置を付けずに持続的植物状態になった二五歳のナンシー・クルーザンの場合には、一九八三年に医療保険が切れた後で、両親は、娘に代わって栄養分と水分の人工補給を止めて欲しいと医師に要請したが、拒否されたので地域の裁判所に弄えた。裁判所では栄養補給を停止してよいと判決を下したが、ミズーリー州政府が控訴した。

      ミズーリー最高裁判所では、娘の生命の尊厳を重んじるべきという理由で政府が勝訴した。そこで、両親は連邦最高裁判所に上告したが、一九九〇年に本人の意思を確認する証明がないという理由で、両親は再び敗訴した。

      この判決を知ったナンシーの友人三人が二か月後に証人を申し出たので、両親は裁判所に「証人がいたこと」を報告した。裁判官は本人の意思を確認して、栄養物と水分の人工補給を中止する許可をした。本人の意思であったとはいえ、ナンシーは、中止後一二日目に脱水と餓死でこの世を去った。

  4. 英国における栄養補給の停止裁判

      一九九三年二月五日の朝日新聞夕刊にロンドン発の外竃として「一九八九年四月に起こったサッカー場の暴動で脳に損楊を受けて植物状態に陥ったニニ歳の男性への栄養補給を医師が止めてよいかどうか争ってきた裁判で、英国の最高司法府である議会上院は二月四日、栄養チューブの取り外しを認める判決を下した。病院側は『栄養補給を止めれば、おそらく二週間以内に亡くなるだろう』と見ている」と報じている。

      さらに、この解説として「この男性は、ウェストヨークシャーに住むトニー・ブランドさん。裁判では、医師や両親がトニーさんの病状を『生ける屍だ』として尊厳死を求めたのに対し、政府側が患者の権利を守るためにつけた弁護士が取り外しに慎重論を主張してきた。判決は、こうした患者への栄養補給が、もはや『人格の維持には役立っていない』と判断した」と報道している。

      この英国の裁判では、植物状態になった患者本人の意思が不明であるので法定代理意思決定者として政府が任命した弁護人が、本人の意思決定を代行している点が、米国のナンシー・クルーザン事件におけるように、最高裁判所にまで上告して、飽くまでも本人の意思の確認をめぐって争われた裁判と異なる点である。

      この報道が真に正しい内容を伝えているならば、筆者は「栄養補給の停止は患者を餓死させる行為であるので、死刑囚ではない一般人が患者である場合に、本人の意思が不明なまま忖度により決定してもよいものであろうか」という大きな疑問を抱かざるを得ない。

      ちなみに、連合王国の国会の上院、貴族院(House of Lords)は、一八七六年に連合王国の最高裁判所として復活して以来、その裁判権をもっている。

  5. 日本学術会議報告書

      一九九四年五月二六日に、日本学術会議は「尊厳死について」の報告書を承認して公表した。

      本報告書では「生命の基本となる栄養補給は自然の死を迎えさせる基本的な条件であるが、その方法が人為的である点にかんがみれば、鼻孔カテーテル及び静脈注射等による栄養補給も、病状等を充分に考慮して、中止してもよい場合があると考えられる」と結論している。どういう場合に中止してもよいのかについて、もう少し厳密に条件付けをして結論しないと、これが、独り歩きしだした場合、滑り易い坂論議(slippery slope)式になりがちで危険である。

      「栄養補給は、その方法が人為的であるから中止してよい」という報告書の論理が分からない。なぜなら、積極的な治療の中止が許されるのは、やりがいのない治療あるいは過剰医療をすることによって、かえって患者のQOLを損ねたり、尊厳を傷付けるようなことのないようにするため、あるいは患者のQOLを高めるのが目的の場合に限られているのであるから。

      患者の生体反応も減弱し辛うじて生きているような状態で、死期が一両日に迫っていると複数の医師によって診断されるような場合には、すなわち臨床の経験から、栄養補給をしても十分に消化吸収されてエネルギー源となり栄養素として活用される見込みもないといえるほどに弱っているような場合には、栄養補給そのものが患者の生命維持に重要な働きをしておらず、栄養補給の処置が患者に与える負担や不快さがむしろQOLを低下させていると判断される場合が多いが、そのような場合には、医師の裁量により栄養補給の処置を停止したほうが患者のためといえよう。

      しかし、水分の補給は、別である。水分の補給の停止は脱水症状を起こし、口渇はもちろん、唇、口腔粘膜、舌の表面などの乾燥やひび割れや出血などを起こし、鼻腔粘膜や角膜、結膜の乾燥、さらに皮膚のかゆみ、乾燥、ひび割れ等を起こし、全身的には発熱、頭痛を起こすようになり、患者のQOLを明らかに低下させる。患者は悪いことをして罰せられるために栄養や水分の補給を停止させられるわけではないのであるから、「その方法が人為的であるから中止してよい」と結論するのは妥当だとは思われない。何のために中止するのかという真の理由に基づき、その目的を達成するためにのみ中止を考えるべきであろう。

      もし、患者の意識がしっかりしている間に、患者が自分の意思で、上記のような死を迎える状態を想定して、栄養と水分の補給の停止を希望された場合には、医師は「あなたの要請を実施すると、患者のあなたはかえって苦しみ辛い思いをして自分自身のQOLを明らかに低下させることになりますよ」と十分に説明して、それでもよいという覚悟で希望するのかどうかを確かめてあげる必要があると思われる。

      終末期には、治僚とは別に緩和ケアが必要なことはいうまでもない。

      報告書では「文書(筆者注:リピング・ウイルを指す)の形式を採らなくても、近親者等の証言によって事前の意思が確認できれば、それを本人の意思ないし希望として扱ってもよいように思われる」としているが、どのような証拠があれば、近親者等の証言によって事前の意思が確認できるとするのか、説明がない。

      米国のUniform Anatomical Gift Actに定めてあるような意思決定権をめぐる家族内の順位が、わが国の法律では定められていないので、家族内で意見が分かれたときに、家族のなかのだれの意見をもって家族の結論的意見とするのかが決められていない。

      米国において尊厳死をめぐる住民投票をした際のワシントン州の法案(イニシアテアィブ一一九)およびカリフォルニア州の法案(プロポジション一六一)に盛られた条項では、患者が自分の生命の終焉をもたらすように医師に要請する文書を作成する際に、次に掲げる者はいずれも証人となることはできないと定められていた。そのなかに、

      ①血縁、嬉、養子縁組による家族

      ②患者から遺産相続を受ける者

      などが含まれており、家族のだれにも証人となる資格が与えられていない。家族同士では利害が反することが多いからである。

      このように家族の証言を認めない米国とわが国では国民感情に違いがあるにしても、わが国では、あまりにも性善説に立ち過ぎて、家族全員を差別なく一律に信用する現実離れした情緒的傾向が強過ぎるのではあるまいかと思われる。

  6. 本人の意思表示の必要性

      延命治療を希望するかしないかは、患者本人の死の迎え方そのものの問題であり、さらに栄養や水分の補給を停止するかしないかは患者が脱水し餓死するかどうかの生命を賭けた決断であるから、患者以外の何人の忖度による第三者の代理意思決定も、それは認めるべきではないと信じるものである。

      それゆえ、自分の終末期に停止してもらいたい医療技術を前もって医師に要請し指示しておくための文書、すなわちリビング・ウイルやアドバンス・ディレクティプを作成しておく権利を認める法律の制定は、わが国においても必須である。例えば、一九七六年制定のカリフォルニア州自然死法のように。しかし、リビング・ウイルやアドバンス・ディレクティプのなかで、終末期に停止するように医師に要請しておきたい医療の内容については法制化するべきではない。

      なぜなら、医学医療の学理と手技は日進月歩で変化し続けるからである。


星野一正
(京都大学名誉教授・日本生命倫理学会初代会長)