時の法令1496号,40-46,1995年4月30日発行
民主化の法理=医療の場合

東海大学のいわゆる安楽死事件の判決をめぐって

星野一正


    まえがき

       平成三(一九九一)年四月一三日に、東海大学附属病院で、すでに昏睡に陥っていた末期がんの男性患者に希釈しない塩化カリウムを静脈内注射して心臓マヒで死亡させたとして殺人罪で起訴され、懲役三年の求刑をされていたT医師による「東海大学のいわゆる安楽死事件」の判決公判が、横浜地方裁判所において、本(一九九五)年三月二八日に開かれた。松浦繁裁判長は、T医師に懲役二年、執行猶予二年の有罪判決を言い渡した。

       本件が安楽死に当たるかどうかの判断基準として、昭和三七(一九六二)年に名古屋高等裁判所において成田薫主任判事によって示された「安楽死六要件」を、三三年目に根本的に見直して松浦繁裁判長は、「医師による安楽死の四要件」を新たに提示し、積極的安楽死には当たらないと判断した上で、判決が下された。

  1. "医師による安楽死の四要件"

    判決の主文に続けて「判決理由の骨子」が、次のようにまとめられている。

    1. 治療行為の中止のためには、患者の意思が推定できる家族の意思表示でも足りる。

    2. 医師による積極的安楽死の要件は、

      1. 耐えがたい肉体的苦痛があること、

      2. 死が避けられずその死期が迫っていること、

      3. 肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと、

      4. 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があることである。

    3. 本件の治療行為の中止は患者の意思を推定できず、注射による致死行為は肉体的苦痛及び明示の意思表示が存在せず、いずれも適法要件を満たしていない。

     しかし、新聞で報道されたこのように簡潔な「判決理由の骨子」しか読まなかった人々には、裁判長の真意が伝わらず、判決理由の骨子の文面から受けた個人的な印象だけで、仮に読者の誤解に基づく印象があったにしても、そのまま思い込まれてしまう危険があるのではないかと危惧するものである。

     三月二九日の朝日新聞の社説に「だが、この要件が医療の現場で守られるような状況にあるだろうか。家族の意思表示があれば認められる、という結論だけが独り歩きする恐れもぬぐいされない」「インフォームド・コンセントが徹底されていない中で、本人の意思がなおざりにされるケースも少なくない現状がある」、そして最後に「今、急がなければならないのは、本人が自由な意思で、生の最期をどう選ぶかの態勢づくりである」と憂慮する発言があった。

     判決後の新聞紙上に紹介されたいわゆる学識経験者の発言の中にも、誤解に基づく発言が見られ、残念である。たとえば「安楽死には患者本人のリビング・ウイルが絶対条件だが、本件ではこれがなく…」と批判しているが、「判決理由の要旨」の中の「一 治療行為の中止の要件」で裁判官は「治療の中止は、患者の自己決定権と医師の治療義務の限界を根拠に許されると考えられる」と述べ、積極的安楽死にはリビング・ウイルよりも決定的な患者の明示の意思表示を要件として、治療の中止に際しては、リビング・ウイルがあっても、治療の中止の時点とあまりにもかけ離れた時点でなされたり、その内容が漠然としているときは、家族の意思表示により補うことが必要であると述べている。

     また、「治療の中止を求める患者の意思表示は、明確な意思表示によることが望ましく、それは、病状や治療内容、将来の予想される事態等について十分な情報を得て正確に認識した上で、真摯で持続的な考慮に基づいて行われることが必要であり、そのためには病名告知やインフォームド・コンセントの重要性が指摘される」とあり、さらに「家族の意思表示から患者の意思を推定すること、言い換えると、患者の意思を推定させるに足りる家族の意思表示によることが許される。こうした患者の意思を推定させるに足りる家族の意思表示と認められるには、家族が、患者の性格、価値観、人生観などについて十分に知り、その意思を的確に推定し得る立場にあることと、患者の病状、治療内容、予後等について十分な情報と正確な認識を持っていることが必要である。また、家族の意思表示を判断する医師側においても、患者及び家族との接触や意思疎通によって、患者自身の病気や治療方針に関する考えや態度、患者と家族の関係の程度、密接さなどについて必要な情報を収集し、患者及び家族をよく認識し理解する的確な立場にあることが必要である。この患者の意思の推定においては、疑わしきは生命の維持を利益にとの考えを優先させねばならず、また、複数の医師によるチーム医療が大きな役割を果たすといえる」と詳細な条件付けをして歯止めをかけてある。

     治療の中止の対象となる措置に関し、「薬物投与、化学療法、人工透析、人工呼吸器、輸血、栄養、水分補給など、疾病を治療するための治療措置及び対症療法である治療措置、さらには生命維持のための治療措置などすべてが対象となる。どのような措置を何時中止するかは、死期の切迫の程度、当該措置の中止による死期への影響の程度等を考慮して決定される」と、症例ごとに患者・家族・医師の良識ある時宜に適した判断にゆだねている。筆者も、人工透析、栄養・水分補給の中止には神経をとがらせる立場にあり、症例ごとに患者・家族・医師の良識ある時宜に適した判断にゆだねることに危惧を感じるが、時宜に適した患者・家族・医師の良識的判断を信頼する以外にはないのかもしれないと考えている。そこで、これらの条件を満たす医療現場における指針を専門家による委員会が作成し、日本各地の医療機関に配付することが望ましい。

     判決理由の要旨には、「患者の自己決定権は、死そのものを選ぶ権利、死ぬ権利を認めたものではなく、死の迎え方ないし死に至る過程についての選択権を認めたに過ぎず、早過ぎる安易な治療の中止を認めることは、生命軽視の一般的風潮をもたらす危険があるので、生命を救助することが不可能で死が避けられず、単に延命を図るだけの措置しかできない状態になったときはじめて、治療の中止が許されると考える」と述べ、続けて「死の回避不可能の状態に至ったか否かは、医学的にも判断に困難を伴うので、複数の医師による反復した診断によるのが望ましく、死の回避不可能な状態というのも、中止の対象となる行為との関係で相対的にとらえられる」としている。

     判決文の中の「治療の中止のためには、患者の意思が推定できる家族の意思表示でも足りる」という要件に対して、反対意見が新聞紙上に表明されているのが注目される。この要件だけ読めば、反射的に危惧の念が起こるのは当然である。しかし、家族による患者の意思の付度で足りるとはなっていない点と「患者の意思が推定できる家族」と家族の定義をつけている点に注目したい。

  2. 名古屋高裁の六要件と本件判決の四要件の対比

     「判決理由の要旨」の中で、安楽死の要件に触れてあるので、ここで今回の四要件と名古屋の六要件とを対比させながら、私見を述べてみたい。

     三三年前に名古屋高等裁判所において提示された六要件は、当時としては国際的に見ても先見性のある判決であったが、時代とともに安楽死に対する要件は厳しくなってきているので、今回の四要件が提示された。

    ① 耐えがたい肉体的苦痛があること六要件では「② 病者の苦痛が甚だしく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること」と、本人ではなく、第三者の判断を基準にした病者の苦痛の程度を要件にしてあったが、今回は、本人が耐え難い苦痛とし、さらに肉体的苦痛に限定した点が異なる。判決理由要旨で「この苦痛は、現段階においては症状として表れている肉体的苦痛に限られ、精神的苦痛は含まれない」と、「現段階においては」と断っている。現に、オランダでは精神的苦痛も安楽死の要件に入っているのであるが、オランダとは安楽死の歴史的経験や国民の理解及ぴ支持の程度が大きく異なる社会的状況にあるわが国とは明らかに違うので、裁判官のこの判断は理解できる。しかし、肉体的な苦痛はモルヒネ等による現在の進歩したペイン・コントロールで耐えられるまでに緩和できるかもしれないが、それに付随して患者を苦しめている精神的苦悩は耐えられない場合もあると考えられるので、現段階では、今回の裁判官の決定が妥当であるとしても、将来的には精神的苦痛も要件に入れるべきである。

    ② 死が避けられずその死期が迫っていること

     六要件の①と本質的に違いはないが、安楽死の要件の中で「苦痛の除去・緩和と生命の短縮との均衡から、死が避けられず死期が切迫していることが必要であるが、その切迫の程度については、安楽死の方法との関連である程度相対的になる」と述べてあり、安楽死としては、積極的安楽死と間接的安楽死に分けている。

    ③ 肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がないこと

     六要件の「③ もっぱら病者の死苦の緩和の目的でなされたこと」を今回は非常に厳しい要件にしてある。新聞に紹介された意見に「あらゆる努力をすれば患者の苦痛は除去できる」「本要件をあげたことで、患者の苦痛を除こうとする医師の努力をそぐ危険がないか」とあるが、ペイン・コントロールの専門家でも「WHOの癌疼痛対策法を含む治療をしても、少なくとも一〇%の患者の痛みを取ることはできない」と発表しているので、専門家の間に見解の食い違いがある。もし、まれにしか代替手段がないほど苦痛に苛まれる患者がいなければ結構なことで、積極的安楽死を広めようとするわけではないので差し支えない。もし、そのまれな患者が求めた場合に、積極的安楽死という選択肢を提供できる道を開いた意義は大きい。

    ④ 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること

     六要件では「④ 病者の意識がなお明瞭であって、意思を表明できる場合には、本人の真摯な嘱託または承諾のあること」となっていたが、暖昧さを除いて、患者の明示の意思表示がある場合に限定したことの意義は実に大きい。患者の意識が明瞭でない場合には、積極的安楽死は認められない。間接的安楽死の場合には、患者の意識が明瞭でなくとも、リビング・ウイルがあれば家族による患者の意思の推定の根拠になる。四要件に含まれなかった六要件の中の要件の一つは、「⑤ 医師の手によることを本則とし、これによりえないと首肯するに足る特別な事情があること」であるが、この要件の暖昧さを除き、今回は「医師による安楽死の四要件」とうたつてあるように、医師に限ることになり、意義ある改正である。

     もう一つの要件は、「⑥ その方法が倫理的にも妥当なものとして容認しうるものなること」であるが、本判決の四要件に入れていない理由として、裁判官は、「名古屋高裁判決は、医師の手によることを原則にしつつ、もっぱら病者の死苦の緩和の目的でなされること、その方法が倫理的にも妥当なものとして容認しうるものであることを、それぞれ要件として挙げているが、末期医療において医師により積極的安楽死が行なわれる限りでは、もっぱら苦痛除去の目的で、外形的にも治療行為の形態で行なわれ、方法も、例えばより苦痛の少ないといった、目的に相応しい方法が選択されるのが当然であろうから、特に右の二つを要件として要求する必要はないと解される」と説明している。

     「判決理由の要旨」の中では、

    一 治療行為の中止の要件

    ① 患者が治癒不可能な病気に冒され、回復の見込みもなく死が避けられない末期状態にあること

    ② 治癒行為の中止を求める患者の意思表示が存在し治癒の中止を行う時点で存在すること

    ③ 治療行為の中止の対象となる措置

    二 安楽死の要件

    ① 患者に耐えがたい激しい肉体的な苦痛が存在すること

    ② 患者の死が避けられずかつ死期が迫っていること

    ③ 患者の意思表示が存在すること

    ④ 方法としては間接的安楽死と積極的安楽死が許される

    三 本件具体的行為の評価の各項日ごとに詳しく述べられている。

     最後の「理由」は、事実の経過/罪となる事実/裁判所の判断(法律判断)〔一般論(治療行為の中止の要件・安楽死の要件)・本件行為の評価〕/量刑の理由、に分けて述べられている。

  3. "本案判決"の意義

     これらの判決文を読んでみると、裁判官が、わが国と諸外国における終末期患者に対する尊厳死や間接的安楽死そして積極的安楽死についての現状を周到に研究され、理解された上で判決を下されたことは明らかである。本件の被告の行為は安楽死ではなかったが、この裁判の機会に国際的レベルから見ても妥当な「医師による積極的安楽死の四要件」を新たに提示され、なお、終末期におけるやりがいのない延命医療の中止(尊厳死)ならびに間接的安楽死についての法的要件をも示された裁判長の努力を高く評価したい。

     特に、積極的安楽死を「医師による」ものと限定し、さらに「患者の意思表示は明示のものに限られ」「推定的意思では足りない」と定めたことは、きわめて重要なことであり、高く評価する理由の中でも特記するべきことである。

    判決をまとめるに当たり、裁判長は、一、治療行為の中止の要件の中で、延命治療の中止を容認し、次いで二種類の安楽死を認めた上で、二、間接的安楽死の要件、三、積極的安楽死の順で分類して論旨を進めているのは、賢明な方法であったと思われる。

     しかも、積極的安楽死に対する消極的安楽死として従来使われてきているけれども使う人によって意味するところの異なる消極的安楽死という用語を避けて、「間接的安楽死」という用語を使っているのは、見事である。

     苦痛に苛まれ続けていて安楽死以外には代替手段がない場合に、最後の手段として安楽死をさせて欲しいと自発的に強く要請する患者に、医師が、苦痛を多少なりとも軽減してあげられる薬剤を投与して、患者が「これで私もやっと楽になれるのだなあ」と苦痛から解放される喜びを抱いた時に、眠るがごとく息を引き取れるような致死的薬剤の投与を追加して、永久の眠りに誘い込むのが積極的安楽死である。すなわち、苦しみもがき続ける患者の人生の最後に患者の生命の質(QOL)を高めてあげるのが、積極的安楽死の目的である。

     それに対して、やりがいのない延命治療の中止のみならず、人工透析、栄養・水分補給など生命維持のための治療措置を中止することによって、生態機能の衰弱をもたらし、その結果として死を迎える過程は、医師の行為によって寿命が多少短縮するにしても、それは間接的に生じるものであるがゆえに、裁判長は、間接的安楽死として、やりがいのない延命治療の中止と区別し、さらに積極的安楽死とも一線を引いたのである。

    *

    昨年の九月一四・一五日の二日間、横浜地方裁判所に証人として出廷した筆者が、松浦繁裁判長の前で、オランダや米国の尊厳死・安楽死の現状や新しい生命倫理(バイオエシックス)について、メモも資料もなしにすべて記憶から朝から夕方まで独りで証言し続けた苦労を思い起こし、本件の判決にあたり、誠に深い感慨がある。

     本裁判を契機に、いかなる医療に際しても、患者の意思を最大限に尊重し、医師による独善的医療がなくなることを、切に願うものである。


星野一正
(京都大学名誉教授・日本生命倫理学会初代会長)