時の法令1578号, 69-79,1998年9月30日発行
民主化の法理=医療の場合 47


アウシュヴィッツ絶滅収容所の惨劇
—「ニュールンベルグ倫理綱領」の源流として

星野一正


まえがき

    一九四五年に第二次世界大戦が終結するまで、ドイツのナチスは、「アーリア人こそ生きるに値する最高の人種」としてその純血を守るために、アーリア人以外の血が混ざることを恐れて、非アーリア人であるユダヤ人やジプシーはもちろん、それ以外にも政治犯、犯罪者、先天異常者、身体障害者、精神異常者、同性愛者などを検挙し強制収容して、断種、強制労働、人体実験あるいは人体実験とはいえない死をもたらす残虐な試みと拷問、毒物などによる安楽死と称した殺人、銃殺や絞首などによる死刑執行、そして遂には絶滅収容所でのガス室大量虐殺という、言語に絶する悪魔的な悪事悪行を重ねたことは、有名な事実である。

    例えば、終戦までの五年間に、ポーランドの政治犯にはじまる多くのポーランド人、次いでユダヤ人、ジプシー、ソ連人、チェッコ人、スロバキア人、ハンガリア人、ルーマニア人、ユーゴスラビア人、ギリシャ人、イタリア人、オーストリア人、フランス人、ルクセンブルグ人、ベルギー人、オランダ人、ノルウェー人、リトアニア人に、ドイツ人までがアウシュヴィッツ収容所に送りこまれたのであった。この中には、捕虜にされた一万二〇〇〇人のソ連兵も含まれていたが、送りこまれてから五か月間に八三二〇人が殺されていた。記録によれば、この絶滅収容所で、二万一〇〇〇人のジプシーが惨殺されていたという。

    なお、ここでいう絶滅収容所は、extermination campあるいはdeath campあるいはmurder campと呼ばれている。

    アウシュヴィッツ収容所に送られて、入所の登録もせずに、直接にガス室に行かされて毒殺された人々も多いので、到底正確な数は分からないが、不完全ながら存在している資料の研究から、アウシュヴィッツ収容所第一と第二で少なくとも一五〇万人が死亡あるいは殺害されたといわれている。

    現在、アウシュヴィッツ一号と二号の絶滅収容所は、「国立オシフィエンチム博物館」として一般に公開されている。

    七月下旬のポーランド視察の際、この国立オシフィエンチム博物館を参観した。あまりの悲惨さに絶句してしまった。惨劇の場に立ち、この惨劇を教訓として生まれた「ニュールンベルグ倫理綱領」を改めて肝に銘じる衝動に駆られた。

ニュールンベルグ倫理綱領の採択

    こうした悪行を重ねたナチスの責任者たちは、終戦後逮捕され、一九四六年にドイツのニュールンベルグにおいて開かれた国際軍事裁判で裁かれた。

    そして、国際軍事裁判で明らかにされた罪状を参考にして、このような非倫理的な行為が二度と行われないことを願って、「ニュールンベルグ倫理綱領, 一九四七年」が採択された。これは以後、ヒトを対象とした研究や医療における倫理基準として尊重されている。

    しかし、「ニュールンベルグ倫理綱領, 一九四七年」は、単なる研究や医療の倫理基準で終わらなかった。それは、例えば一九六〇年代末までにインフォームド・コンセントが確立されていく過程で、医療過誤裁判の裁判基準作成の倫理的基準としても重要な役割を果たしたのであった。以下に述べるように、「ニュールンベルグ倫理綱領, 一九四七年一は自らを源流として幾つもの支流をつくり、医学界に与えた影響ははかりしれない。

「ニュールンベルグ倫理綱領一九四七年」とその影響

〔「ニュールンペルグ倫理綱領一九四七年」(全文)〕

  1. 医学的研究においては、その被験者の自発的同意が本質的に絶対に必要である。このことは、その人が同意することができる法的能力をもっていなければならず、暴力、ペテン、欺き、脅迫、騙し、あるいはその他の表面には現れない形での強制や威圧を受けることなく、理解した上で、間違いのない決断を下すのに十分な知識と包括的な理解をもって、自由に選択できる状況の下で、被験者となる人が自発的同意を与えるべきであること、を意味している。

    そのためには、医学的研究の対象とされている人から確定的な同意を受理する前に、研究の性質、期間、目的、実施方法や手段、被験者となったために起こりうると考えられるすべての不自由さや危険、健康や人格に対する影響について、医学的研究の対象とされている人は、知らされる必要がある。

    同様の内容が妥当なものであるかどうかを確かめる責任は、実験を開始し、指導し、あるいは実施する各個人にある。これは、実施責任者が難を逃れて他の人に押し付けることのできない実施責任者個人の義務であり、責任である。

  2. 実験は、他の研究方法や手段では得られず、かつ行き当たりばったりの無益な性質のものではなく、社会的善のための実り多い結果をもたらすべきものでなくてはならない。

  3. 実験は、動物実験の結果に基づき、かつ病気の本来の由来を理解し、また期待される結果がその実験の遂行を正当化するような研究において、直面した他の問題についての知識を踏まえた上で計画して行うべきである。

  4. 実験は、すべての不必要な肉体的・精神的苦痛や障害を起こさないように行われなくてはならない。

  5. 死亡や機能不全を生じる傷害を引き起こすことがあらかじめ予想される理由がある場合には、その実験を行ってはならない。ただし、実験する医師自身も被験者となる実験の場合には、恐らく例外としてよいであろう。

  6. 許容され得る危険の程度は、その実験で解決されるべき問題の人道的重要さの程度を上回ってはならない。

  7. 被験者に傷害、機能不全や死をもたらすような可能性からでも被験者を守るべく、適切な準備をし、十分な設備を整えなければならない。

  8. 実験は、科学者としての有資格者によってのみ実施されなくてはならない。実験を指導し実施する人にとっては、すべての実験段階を通じて最高度の技術と最新の注意が必要である。

  9. 実験の進行中に、被験者にとって実験の継続が耐えられないほどの肉体的、精神的な状態に達した場合には、随時に実験を中止してもらえなければならない。

  10. 自分に求められる誠実さ、優れた技術、注意深い判断に基づいて実験を継続すれば被験者に傷害、機能不全や死をもたらすだろうと推測するに足る理由がある場合には、実験責任者は、実験の途中でいつでも実験を中止する心構えでいなくてはならない。
(星野訳)

〔ジュネーブ宣言〕

    「ニュールンベルグ倫理綱領一九四七年」の一〇カ条の倫理的規範は、医学的研究や人体実験における実施者と被験者との関係についてであるが、これらを日常の医療やケアにおける医療従事者と患者・家族との人間関係における倫理的規範としても十二分に尊重されるべきだと考えられた。

    そこで、ジュネーブにおける第二回総会において世界医師会は、当時すでに現状にそぐわなくなっていた「ヒポクラテスの誓い」に代わり、一九四八年に、医療における人道的目標として、「ジュネーブ宣言」を医師の奉仕的宣言として採択した。

〔ヘルシンキ宣言〕

    一九六四年に世界医師会は、ヘルシンキで開催した第一八回総会でおいて、「ジュネーブ宣言」を更に時代に添わせるべく、「ヒトにおけるバイオメディカルな研究に携わる医師たちのための勧告」を採択した。いわゆる「ヘルシンキ宣言」である。

    これは、一九七五年の東京における第二九回世界医師会総会において、インフォームド・コンセントの詳細な指針を盛り込んで再び修正され、「ヘルシンキ宣言一九七五年東京修正」(星野『インフォームド・コンセント』丸善ライブラリー二三二、一九九七年、参照)として採択された。その後、インフオームド・コンセントは、世界中の世界医師会参加国の医師会に紹介されたのであった。

    家族主義的、相互依存的に生活をし、自由民主的社会の個人主義を受け入れにくい社会に住み慣れている日本人には、インフォームド・コンセントの考え方は馴染みにくいといえよう。しかし、既に現在、欧米諸国では、医療従事者がインフォームド・コンセントを無視して医療行為ができないほどに、普及していることを考える時、戦時中ナチスの行った残虐な行状に対する恐怖と嫌悪が欧米諸国ではいかに強かったか、そして「ニュールンベルグ倫理綱領」がいかに多大な影響を与えたかが分かると思われる。

残虐の歴史、アウシュヴィッツ絶滅収容所

    一九三九年六月にポーランドにドイツ軍が侵攻したのを契機として第二次世界大戦が勃発した。アウシュヴィッツ絶滅収容所がある地域一帯は、一九三九年九月の戦闘の後、ドイツ軍に占領され、ドイツ第三帝国の一部に加えられてしまった。その後、その地方の名前であったオシフィエンチム(Oswiecim)は、ドイツ語のアウシュヴィッツ(Auschwitz)に改名された。

    オシフィエンチム村は、当時、鉄道の要衝で交通の便が良かった所で、しかも人口密集地から離れて広い面積があり、秘密保持には適していたので、ここに、最初はポーランド人の政治犯を収容するための収容所がつくられ、ルドルフ・ヘスが所長に任命された。

    この収容所の正門の上には、ドイツ語でARBEIT MACHT FREI〔働けば自由になる〕という希望を持たせるような皮肉な文字の大きなプレートがだれの目にも鮮やかに示されていたし、現在も残されている。

    アウシュヴィッツ絶滅収容所の敷地の周囲は、電気が通じている有刺鉄線が二重に張りめぐらされ完全に外部から隔離されており、現在もそのまま残されている。それら二重の囲いの間にはニメートルほどの間隔があり、筆者が訪問した時には、その間には雑草が生えていた。また見張りのための監視所が建てられて、そこから常に監視されていたので、脱獄して逃走するのは、不可能に近かったと思われる。

    このアウシュヴィッツ収容所に、一九四〇年六月一四日に、最初の囚人として、タルヌフ市から七二八人のポーランド人が政治犯として護送されてきた。到着した囚人たちは、洋服その他のものを取り上げられ、男性は髪を切られ消毒されて、縞模様の囚人服を着せられ、囚人番号と赤色の三角形のワッペンをつけられて登録された。赤色のワッペンは、政治犯を示していた。当時、各囚人は、三方向からの写真を撮られた。しかし、一九四三年からは、その代わりに左腕に囚人番号のいれずみ(刺青)を入れられるようになった。しかし、これはアウシュヴィッツ収容所だけで行われ、他の収容所では行われなかった。

    囚人服は、生地が薄く、寒さから身を守ることはできなかった。下着は、何週かごとに、または何か月かごとに着替えを貰えたが、囚人はそれらを洗濯することは許されなかった。そのために色々の伝染病が流行する原因となり、特に、チフスや疥癬が流行していた。

    開設当時には、一階建て一四棟と二階建て六棟、計二〇棟であった。その後、囚人の労働力を使って、一九四二年までには、一階建ての建物はすべて二階建てに改築され、さらに新しく八棟が増築された。

    厨房棟と管理棟の二棟を除いた残りの二六棟の囚人棟の地下室や屋根裏部屋も含めた空間に、平均収容者一万三〇〇〇人から一万六〇〇〇人、最高二万八○○○人が、ぎゅうぎゅう詰めに収容されていた。ここにも、「死のブロック」と死体焼却炉が現在保存されている。

    一九四一年には、このオシフィエンチム村から三キロ離れたビルケナウ・ブジェジンカ村(Birkenau・Brzezinka)に、「アウシュヴィッツ二号ビルケナウ」が設立され、最初の収容所は「アウシュヴィッツ一号」と呼ばれるようになった。アウシュヴィッツ二号ビルケナウは、約五三万坪の面積をもつ広大な敷地に三〇〇以上のバラックがあったが、現在、そのうちの四五棟の煉瓦造りのバハラックと二二棟の木造バラックの囚人棟だけが残っている。この収容所には水がなかった。

    ほとんどすべての煉瓦造りのバラックには床がなく、三段ベッドがぎっしり置かれて、それぞれに約二四人の女性の囚人が収容されていた。木造バラックの囚人棟は、以前は五二頭の馬のための厩舎であって、床板が張ってなく、すきま風が抜けるだけでなく、外の明かりも建物の隙間から射し込むような建てつけの悪いバラックで、鼠や虫などが自由に出入りしては、弱って死んでいった囚人を夜の内に噛つたり食べたりすらしていたのだそうである。各バラックの中に一つだけ暖炉があったが、アウシュヴィッツの冬は極寒で、このような厩舎の建物では暖もとれず、病死する人が多かった。戸外の雪の上に死亡した人々が放置されている写真が展示してあった。支給される下着や衣類は少なく、寒さをしのげず凍死する者も多かった。

    木造囚人棟の一つには、高さ約四五センチ、幅が約一メートル、長さは一○メートル以上のコンクリートの台が作られており、その上面に直径三〇センチほどの穴が二列に並んで開けてある奇妙な物が残っている。それは、囚人の便所で衆人監視の中で排便排尿をさせていたのだとのことである。極めて非衛生的であるばかりか、プライバシーも無視した便所であった。その上、ナチスの決めた懲罰規則では、労働時間中に排泄行為をすることは禁じられていた。つまり囚人たちは、朝出かける前に便所を使い、帰ってきてから使うまでの間、ここ以外の便所を使うことは許されていなかった。禁を破れば懲罰が与えられた。懲罰規則については後述する。

    囚人に与えられた食事の割り当ては、一日一三〇〇から一七〇〇カロリーに過ぎず、実にお粗末であった。朝食時には五〇〇㏄のコーヒー、夕食時には往々にして腐った野菜で作った一リットルの肉なしスープがついた。夕食には、三〇〇から三五〇グラムの粘土混じりの黒パンとマーガリン三〇グラム、ソーセージニ○グラム、それに多少のハーブ・ティーかコーヒー。重労働をさせられる上に空腹のため、完全に体力は消耗し、飢餓で死亡した。

    一九四二年二月一五日に、ポーランドのビトム(Bytom)からユダヤ人の大集団がアウシュヴィッツ二号ビルケナウに輸送されてきた時を境として、それまでポーランド人囚人が最多であったアウシュヴィッツが、ユダヤ人囚人が最多の時期に移行していった。また、この時期を境として、ヨーロッパのユダヤ人の集団絶滅がアウシュヴィッツで始まった。

    ナチスに逮捕された場所とアウシュヴィッツまでの距離が二〇〇〇キロメートルを超えることもあり、そのような長時間の輸送中、ユダヤ人囚人たちは、何日も食事も水も与えられずに屋根付き貨車の中にぎゅうぎゅう詰めに押し込まれ、アウシュヴィッツに着くまでに死亡する者も弱りきってやっと生きているような者も多かった。やっと生きて到着したユダヤ人たちは、アウシュヴィッツ二号ビルケナウで、入所の登録もされずに、ガス室に直行させられて、虐殺されることもしばしばであったという。あるいは、ナチスの医師と保安隊員によって、貨車から降りてきた囚人たちが、重労働のために入所させられる者と、ガス室に直行させられる者とに選別されることもあった。子供連れの母親や妊婦は、最初のころは、ガス室に直行させられたが、その後、子供だけ収容されることが多くなった。

    それらの子供たちは、ユダヤ人、ジプシー、ポーランド人とロシア人であった。子供たちも、政治犯として登録され、大人に混じっての囚人棟での生活で、子供に対する特別な配慮があったわけではなくて、大人と同じひどい扱いであった。子供たちの中には、種々の人体実験に使うために生かしておかれる者もいたが、他の子供たちは重労働をさせられた。特に、双生児の子供たちは、特種の人体実験に使われていた。

    また、別の人体実験として種々の量のフェノールを子供の心臓に注射して殺害し、安楽死(オイタナジー:euthanasie)と称していた。

    ナチスは、ほとんどの虐殺施設をアウシュヴィッツ二号ビルケナウに集中して設置していた。大量虐殺のためのガス室、ガス室で殺害した囚人の死体焼却炉建物、銃殺、絞首、薬殺などガス室以外の死体を焼くための野外焼却場や死体を焼いた灰を捨てる池などが用意されていた。

    一九四四年の八月に、二号ビルケナウに収容していた囚人だけでも、その数は、男女合わせて一〇万人に達していた。しかし、ナチスの虐殺は、決して二号ビルケナウだけで行われていたのではなく、ポーランド国内の他の収容所やゲットーでも行われていた。

    一九四二年には、オシフィエンチム村近くのモノヴィツェ(Monowice)村に「アウシュヴィッツ三号」が建設された。当時、囚人の労働力をドイツ第三帝国の産業が利用し始め、そのための工場が建設されていった。一九四四年にかけて、「アウシュヴィッツ三号」の管理下に、約四〇か所にミニ収容所を建てた。これらのミニ収容所は、囚人を働かせていた工場、鉄工場や炭鉱などに近いものだった。

特記されるべきナチスの残虐行為

    〔懲罰制度による組織的虐殺〕

    労働中の囚人が排泄行為をした場合にも懲罰を受けることは前述の通りであるが、その他の懲罰の理由には、林檎を拾ったこと、自分の金歯を一切れのパンと交換したこと、ナチスの職員に仕事の能率が悪いと判断されたこと、なども含まれており、懲罰には、鞭打ち、過重労働、懲罰班への編入(この場合には食料を減らされた上、最も体力を酷使する重労働を課される)などがあった。

    〔囚人の選別〕

    働ける囚人たちは、毎朝作業所へ行かされ、一日中働かされて夕方へとへとになって収容所に帰ってくるのが常であった。帰ってきた囚人たちをナチスの医師と保安隊員の二人が一人ずつ観察して、もう働けなくて役に立たないと判断された囚人には「あっちへ行け」と指でさし、明日も働かそうと思った囚人には「こっちへ行け」と囚人棟に帰る指示を与えて、選別を行った。「あっちへ行け」といわれた囚人が身体を引きずるようにして歩いていった先は、実はガス室であった。前述のように、これと同じような選別は、輸送車や貨車で送り込まれたユダヤ囚人に対しても行われたのであった。

    〔ガス室での惨劇〕

    ガス室とは知らずに、シャワー室の更衣室だと思って来ると、囚人たちにナチスの保安隊員は「シャワーを使わせてやるから、貴重品やメガネなどは、それぞれ一箇所にまとめて置き、服や下着、義足・義肢・靴なども別々にまとめて置いておけ」と命じて裸にして、シャワー室に見せかけるために天井からノズルが下がっているコンクリートで囲まれた部屋に押し込んで、ドアを閉めて密閉した。二一〇平方メートルのコンクリート部屋に約二〇〇〇人が押し込められるのが常であった。

    天井のシャワー・ノズルからではなく別の穴から、ナチスの保安隊員が、毒薬チクロンB(Cyclon B)を散布すると、囚人たちは、一五分から二〇分くらいで窒息して死にはじめ、間もなく全員死んでしまった。

    実は、このチクロンBを使用するに至るまでには種々の劇薬を試すために囚人たちが生体実験に使われ、最も経済的に、最も能率よく大量毒殺できる薬品を研究するために、ガス室は人体実験にも使われたのであった。チクロンBは、デゲッシュ社が生産し、一九四一年から一九四四年までの問に約三〇万マルクの利益を上げたといわれている。約一五〇〇人を殺すのに六キロから七キログラムのチクロンBが必要であり、一九四二年から一九四三年までの間に、二万キログラムのチクロンBが使用されている。

    さて、全員が死亡した後、死体は運び出され、死体から、入れ歯が外され、金歯が抜かれて、別々に保管された(後に、これらから金の延べ棒が作られて、ドイツ中央衛生局へ運ばれた)。髪の長い女性からは髪が切られて保管され、ピアスや指輪などの高価なものは没収された。死体は、一階に運ばれて大型焼却炉の中に一回に数体ずつ投げこまれて焼却されたが、死体が多過ぎて処分に困ると、戸外に運ばれて積み上げられ焼却された。

    人間の死体の灰は、肥料として使われたり、近くの川や池に投げ捨てられた。

    〔切り取られた髪の毛〕

    切り取られた髪の毛は、集められ保管された。この毛髪はドイツ本国の工場に運ばれ、マットレス、毛布、外套や洋服の生地など人毛製品が作られ、使われていた。

    〔没収品の行方〕

    ガス室の脱衣室に残されていた貴重品をはじめ、眼鏡、入れ歯、櫛、ヘヤ・ブラシ、靴その他の多くの遺品は、倉庫に保管され、次々とドイツ本国で利用するために輸送されていったが、貴重品などはナチスの職員に持ち去られたり、その他の使えるものは収容所内で勝手に使用したりした。ソ連軍が接近してドイツの敗戦が迫ると、ナチスの職員は、犯罪の証拠隠滅のためにこれらの品々を保管していた倉庫に火をつけたので、三五棟の倉庫のうちの六棟だけが残っただけであったが、六棟だけでも、何万個の靴、ブラシ、洋服、眼鏡などが発見され、囚人の髪の毛から作った毛布などの人毛製品を含めて、現在その多くが国立オシフィエンチム博物館内に陳列してある。陳列品の中には、収容所に送られて来た囚人たちが持参したトランクやスーツケースなども沢山あり、その中に「M.FRANK, Holland」と国名と名前が書かれた革製カバンを筆者は見つけた。

    〔純ユダヤ人脂肪石鹸〕

    ユダヤ人から採取した脂肪を材料として石鹸を作り、純ユダヤ人脂肪製石鹸として使っていたという。

    〔収容囚人を使った主な犯罪的生体実験〕

    すでに幾つかの収容囚人を使った非倫理的な生体実験について述べたが、その他にも述べておくべき生体実験がアウシュヴィッツ絶滅収容所内で行われていたのである。

    [集団虐殺実験]

    一九四一年九月には、効果的な集団虐殺手段の開発のための実験が行われた。約六〇〇人のソ連軍捕虜とアウシュヴィッツ絶滅収容所内の病院に入院中の二五〇人の患者に、チクロンBの集団虐殺効果を調べる生体実験を行って殺害した。

    [断種実験]

    カール・クラウベルグ教授とホルスト・シューマン博士は、スラブ民族の生物学的絶滅方法の研究のために、男女の断種実験を行っていた。

    [遺伝学的・人類学的研究]

    ヨセフ・メンゲレ博士は、遺伝学及び人類学の研究のために、双生児や身体障害者を使った生体実験を行っていた。

    [新薬開発実験]

    新薬の開発実験の被験者として囚人を無断で使った実験を行っていた。

    [皮膚の生体実験]

    有害物質を囚人の皮膚に塗布したり、種々の皮膚移植法を試みたり、囚人を被験者として、無断で、皮膚の生体実験を重ねていた。

むすび

    ドイツ国内の強制労働収容所を訪れたときにも、涙なしには見られなかったが、ポーランドのアウシュヴィッツ第一及び第二におけるナチスの行状を現場で目の当たりにした時の衝撃は物凄く、人類に対して、二度とこのような残虐で非人間的な行為が行われるべきではないと、心底から思ったのであった。

    この歴史的事実の更なる認識と「ニュールンベルグ倫理綱領」の更なる熟読から、”自発的同意””説明”の意味することに思いを深くせざるを得ない。そして「インフォームド・コンセント」がいかに重要かつ必須のものであるかをまた肝に銘じた次第である。

    注この論文を書くに当たり、国立オシフィエンチム博物館発行文書の内容を日本語に翻訳して論文執筆に使用することについて、著作権の見地から、許可申請を提出し、正式に許可書が発行されていることを付記する。


星野一正
(京都大学名誉教授・日本生命倫理学会初代会長)