時の法令1650号, 78-85,2001年9月30日発行
民主化の法理=医療の場合 80


オランダで、安楽死の容認はなぜ可能なのか

星野一正


●はじめに —オランダ安楽死法の制定

    オランダでは、安楽死容認運動のきっかけとなった一九七一年の「ポストマ医師安楽死事件」からちょうど三〇年目の二〇〇一年の四月一〇日、オランダ議会上院において六二%の賛成で、「要請に基づく生命の終焉ならびに自殺融助法」が制定されることになった。これが、世界で初めての国家が定めた安楽死容認の法律となる(詳細は本誌一六四四号本欄参照)。

    安楽死を容認する法律の制定に関しては、オーストラリアでつぶされ、米国でもその前途は厳しいものがある。なぜオランダで可能だったのか、今回は、その背景をまとめて紹介したい。

●安楽死容認連動の契概 —ポストマ医師事件

    [事件のあらまし]

    ポストマ医師の実母が、脳溢血で倒れた後で、部分麻痺、言語障害、難聴などで苦しみ、ベッドからわざと落ちたりして何度か自殺を図ったが、毎回失敗して死に切れず、「死にたい」と言い続けていた。

    娘のポストマ医師は、「もういいから、楽にしてほしい」という母親の願いで、安楽死をさせてあげようと決心し、医師である夫に相談した。夫は彼女の意思に賛成した上で、「あなたが自分の母親を死なせるのはつら過ぎるよ。私がお母さんを眠らせてあげる」と自分が違法行為を実施する気持ちを伝えた。ところが彼が実施する寸前に、ポストマ医師は「やはり私が母を楽にさせてあげたい」と言い張って、自分の腕の中に母を抱いて、モルヒネニ○○ミリグラムを注射して、安らかな眠りにつかせた。そして、すべての事情を書きとめた報告書を持って、警察に自首した。

    この事件でポストマ医師の起訴が公表されるや、彼女に対する同情と支持が、患者や友人たちをはじめ多くの市民たちから寄せられ、多くの医師たちもともに「ポストマ医師を救え」と立ち上がり、安楽死問題に大きな社会の関心が集まった。

    オランダでは、ユニークな「掛かりつけの医師制度」がすでに社会に定着していた。オランダの住民は、国籍に関係なく、必ず自分の「掛かりつけの医師」を決めて、政府に届け出なくてはいけないという制度である。患者は、自分の掛かりつけの医師とは友人のような親しい関係で、一般に家族も親しくしている。

    ポストマ医師への積極的な支援運動を始めた多くの開業医たちは、「私も今までに少なくとも一回はポストマ医師と同様な罪を犯している」という公開状に署名して、法務大臣に提出した。

    このような社会状態の中で、自発的安楽死は、ますます社会的関心事となっていった。

    [判決—レーウワー一デン安楽死容認四要件]

    一九七三年に、レーウワーデン裁判所で、ポストマ医師に対して、オランダ刑法第二九三条違反として「一週間の懲役並びに一年間の執行猶予」の判決が下された。

    本裁判において、「レーウワーデン安楽死容認四要件」が認定された。

    1. 患者は、不治の病に罹っている。

    2. 耐えられない苦痛に苦しんでいる。

    3. 自分の生命を終焉させてほしいと要請している。

    4. 患者を担当していた医師あるいはその医師と相談した他の医師が患者の生命を終焉させる。

    [安業死容竃違勘の発展]

    「ポストマ医師を救う運動」に始まり、彼女の有罪判決直後には「オランダ自発的安楽死協会」が設立された。そして、「刑法二九三条を改正して、医師による自発的安楽死の実施を法的に容認する」という法律改正運動を開始した。

    一方同じころ、法律家のファン・ティル博士が中心となって、「自発的安楽死財団」を設立した。この財団では、自発的安楽死を強く求める患者たちに「良い死の迎え方」の援助をしたり、患者を無理に安楽死をさせることがないようにするために、理論的・学問的に良い方法を模索する学者たちの頭脳集団となるのが目的だった。

    多くの図書などの出版活動も行い、次第に学問的な信用もついて、裁判所や政府機関などでも、これらの出版物を参考にするようになっていった。

    さらに、王立オランダ医師会は、次のような声明を出した(一九七三年)。

    「安楽死は、法的には犯罪であることには変わりはないが、もし医師が、ある患者の症例について、あらゆる面から検討した結果、不治の病にかかって死を目前にしている患者の生命を短縮した場合に、裁判所は、医師の行為を正当化しうる『医師としての義務の相剋』があったかどうかについても裁判するべきであろう」と。

    [「医師としての義務の相剋」における違法性阻却の理論]

    オランダの「掛かりつけの医師」制度の下では、医師は、患者の病状のみならず、長年の精神状態の変化やそれらの原因や理由などについても精通し、よく理解している。

    自分の「掛かりつけの医師」を信頼し、生命を預けて依存している患者自身が、人生最後に当たり、法を犯してまで楽にして欲しいと頼っていることを知り抜いている医師は、自分を頼りすがってくる患者の切なる願いを無視して、患者を裏切ることはできないと考える。さりとて、オランダ国民として刑法二九三条を遵守しなければならない。このように「医師としての二つの義務の相剋」に悩んだあげく、患者の願いを聞いて自発的安楽死をさせた医師の行為には、「オランダ刑法四〇条」が適用されて、違法性阻却を認めるのである。

    しかし、違法性が阻却されたからといって、無罪になるとは限らない。たとえば、後述する「シャボット医師の安楽死事件」におけるように。

●国家の動き1 —自発的安楽死事件の起訴を慎重に

    [「オランダ国家安楽死委員会」と「検察庁長官委員会」の設置]

    一九八一年には、勅令により「オランダ国家安楽死委員会」が設置された。

    同年、オランダ検察庁では、法務大臣と合議の上で、検死官に報告されたすべての安楽死事件について中央機関で審議することとし、五名の検察庁長官からなる「検察庁長官委員会」を設置した。政府は、「検察庁長官委員会が審議して起訴することを承認するまでは、医学的に実施された自発的安楽死の件を起訴してはならない」という指示を出している。

●「医師による安楽死」の法的容認の発展 —アルクマール事件

    [事件のあらまし]

    患者マリアは、医師Sから、悪化していく自分の病状について詳しく説明された時に、アドバンス・ディレクティブを書いて「もし自分が尊厳を保てる状態にまで回復することが期待できなくなった場合には、安楽死をさせて欲しい」と意思表示をした。

    マリアは、難聴で目も見えず言語障害もある上に、九四歳で腰を骨折してしまった。その後、病状が悪化して昏睡状態に陥ったが、数日後に意識が戻った時、マリアは「この年で、このような状態で生きていたくない」と訴えた。医師Sは、マリアに病状の説明をした後で、助手の医師とマリアの息子に相談したところ、二人とも「マリアの希望を入れてあげるべきだ」という意見だった。そこで、医師Sは、マリアと話し合ったが、彼女は「どうしても死にたい」と断言したので、希望を入れて安楽死を実施してから、警察に自首した。

    アルクマール地方裁判所では、「被告医師Sには違法行為はない」と判決を下した。この事件は、通称「アルクマール事件」と呼ばれている。

    しかし、検察官はアムステルダム高等裁判所に控訴した。弁護人が緊急避難を主張したが認められず、被告医師Sは敗訴した。が、刑罰は科されなかった。今度は被告人が上告した。一九八四年十一月に、「オランダ最高裁判所の最初の安楽死裁判」として判決が下され、「高等裁判所が緊急避難を認めなかったのは誤りであった」と、ハーグ高等裁判所に本件を回した。ハーグ高等裁判所では、緊急避難を認めて、被告医師Sを放免した。

    この「アルクマール事件」によって、「患者本人の意思に基づいて真摯に要請した結果、医師によって実施された安楽死の法的容認」の法的保障が、顕著な発展を見ることになった。

    [王立オランダ医師会の安楽死に関する公式見解]

    ハーグの「オランダ国家安楽死委員会」から、王立オランダ医師会の公式見解を求められて、同医師会の「安楽死ヴィジョン中央委員会」が、「医師へのガイドライン五要件」の勧告を含む「安楽死に関する公式見解」をまとめて、報告した(一九八四年)。

    1. 安楽死の要請は、全く自発的でなければならない。

    2. 安楽死の要請は、十分に考えた上でなされるべきである。

    3. 安楽死の要請は、持続的で、特定な期間を限ってはならない。

    4. 患者は、耐えられない苦痛にさいなまれ続けており、その苦痛は、疼痛による苦痛か、肉体的に苦痛として感じるものか、病態に基づく苦痛か、あるいは疼痛を伴わない肉体の崩壊によるものか、のいずれかである。

    5. 安楽死の臨床に経験のある同僚医師に意見を求めなければならない。

●自発的安楽死は終末期でなくともよい —アドミラール事件

    多発性硬化症により、肉体的並びに精神的苦痛にさいなまれている三四歳の終末期ではない女性患者の真摯な要請に基づいて、一九八五年に、自発的安楽死の率先的実施者であるアドミラール医師が、安楽死を実施して起訴された。

    ハーグ下級裁判所で「医師の緊急避難」が認められて、不起訴になった。この判決により、「自発的安楽死の場合には、患者は必ずしも終末期でなくともよい」ことが法的に初めて認められた。

●国家の動き2 —自発的安楽死の要件等を着々と整備

    [「異常死の報告届出制度」の決定]

    一九九〇年に、王立オランダ医師会と裁判所が「異常死の報告届出制度」を決定した。

    1. 安楽死を実施した医師は、直ちに検死官に報告する。

    2. 検死官が現場に到着後、医師は二〇項目以上の質問に答える形で詳細な報告書を検死官に提出する。

    3. 検死官は、医師からの報告書に検死報告書を添えて、地方検察庁に提出する。

    4. 地方検察庁では、報告内容を審査した結果、不審な点がなければ検察官が許可を与えて、市町村長が埋葬許可を出す。

    5. 提出されたすべての書類は、地方検察庁から「検察長官委員会」に提出され、審査の上で、起訴するか否かの採決が下される。

    [「レメリンク委員会」設竈]

      キリスト教民主同盟と労働党の連立内閣では、安楽死について同意に達することができないので、安楽死の実情について信頼し得る情報が必須であるため、オランダ最高裁判所のレメリンク検事総長を委員長とする委員会を設置した(一九八九年)。

      委員会では、エラスムス大学のマース教授を責任者とする調査研究班並びにオランダ中央統計局に安楽死の実情調査を委嘱した。一九九一年九月、レメリンク委員会は、法務大臣と保健担当国務大臣にレポートを提出した。

    [安楽死のガイドライン]

      オランダ議会下院において、公式な「安楽死のガイドライン」が賛成多数で承認され(一九九三年)、上院に回された。

      しかし、このガイドラインはオランダでそれまでに行ってきたことの追認であった。

    [「オランダ埋葬法」の改正]

      一九九〇年「異常死の報告届出制度」を改編して「オランダ埋葬法」に盛り込んだ改正案を上院で再び改編した上で、法案から抜いて、政令として適用付記として加えられた。その結果、国会の審議を必要としなくなり、改正「オランダ埋葬法」による安楽死の取扱いが楽になった。

●自発的安楽死に精神的苦痛が加わった —シャボット医師事件

    一九九四年六月二一日のオランダ最高裁判所の裁判において、「心の痛みで生きる意欲も意義も見失って、自発的安楽死を求めた五〇歳の病気ではない女性の自発的安楽死」を認めた。この女性に自発的安楽死をさせたシャポット医師は、安楽死を実施したことそれ自体ではなく、複数の精神科医の意見を徴しはしたが直接に診察してもらわなかった科により、「有罪であるが、刑罰は科さない」という判決を受けた。

    この判決によりオランダでは、患者における身体的な疼痛や苦痛という条件を超えて、医師による自発的安楽死を認めたのであった。

    シャボット医師の実兄夫妻が、偶然にも筆者の友人であったので、詳しい事情を聞くことができたのであった(詳細は、本誌一四八四号五九-六五ページ)。

●自発的安楽死を可能にしたオランダの土壌と国民住

    オラシダでは、「要請に基づぐ生命の終焉ならびに自殺幇助法」の制定に成功したが、これには、前述した一九七一年に起こった「ポストマ医師安楽死事件」以来三〇年にわたるオランダにおける安楽死容認運動の積み重ねの国民的努力があったからであることは、言うまでもないことである。

    それに加えて、筆者としては、オランダ人の個人の自己決定権を認め合う強い意思と自分自身の自己決定権の主張の強さを無視することはできないと思われるし、ユニークな伝統的「掛かりつけの医師制度」がつくり上げてきた、医師と患者の信頼関係と仲の良さも見逃すことはできないと思っている。

    オランダでは、各人自己の尊厳を守り、死を前にしても患者自身が自尊心を持ち続けようとする努力を断念せずに、刑法で禁じられている自発的安楽死を求めてすら、尊厳のうちに死を迎える道を選ぶのだと思われる。そのような患者の家族も、本人の意思を尊重して、本人が求める死の迎え方ができるように支援する。家族が自分の感情を抑えても、患者の希望や意思を侵害しないという強い愛情を、多くの日本人には、家族の愛情としては理解し得ないかもしれない。

    オランダでは、満一八歳で成人となる。成人となった息子や娘は、親の家から独立して個人として、自己決定権を行使して自由に生活をするのが、当たり前の社会である。

    成人となったからといって自力で生計を立てる経済力がない青年男女は、国家から生活費を支給してもらう手続を、自分でしなければならない。また、学業を続けたい青年男女は、努力して奨学金を得なければならない。成人として責任をもった生活を強いられるo

    国家は、経済的には、これら若い青年男女の生活を最低限には保証してくれているのである。しかし、その代わり、働いている国民は、驚くほど高率の所得税などを国家に収めて、このような制度を支えなければならないのである。

    成人した子供は、親の家を出るので、年老いた親と同居して世話をする習慣がない。老人は、自分の世話をすることが無理になると、「買い取りマンション」「ワンルーム・マンション」「レストハウス」「ナーシングホーム」などのケア付き住宅が集まった一戸建てのビルなどに移る習慣がある。移っても、自分の「掛かりつけの医師」が最後までみとってくれ、ときには、自発的安楽死もさせてくれる。自宅に食事を運んでくれたり、掃除やベッドメイキングをしてくれたり、理髪師や美容師が出張してくれたり、ビル内に、看護婦や医師が駐在して急の病気に備えてくれていたり、色々の施設がある。終末期医療や終末期ケアも家庭で行うことが多く、医師・看護婦なども頻繁に往診し、疼痛対策や対症療法も自宅で行うことが多い。諸外国と異なり、自宅で死亡する患者が非常に多いのも特徴的である。

    オランダは、国土が狭く、人口密度が高い国である。オランダ人は、宗教的に寛容であるばかりか、倫理的にも寛容であり、価値観の多様性を受け入れ、思想・表現の自由を重んじる非常に民主的な国民であるので、種々の思想や主義あるいは考え方が共存している国である。たとえば、ホモセクシャル同士又はレズビアン同士の結婚も法的に認められている。他人の意見を尊重する傾向が強く、公開の席でオープンに討論することを好むし、自分と反対の意見を持っている他人に対しても寛容である。

    このような国民性を持っているオランダ人たちですら、「要請に基づく生命の終焉ならびに自殺幇助法」の制定に成功するまでには、辛抱強く三〇年間、努力し続けてきたのである。

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    オランダにおける辛抱強い安楽死容認活動を十数年前から逐次的に追い続けてきたのをはじめ、米国の幾つかの州やオーストラリアにおける安楽死関連の法制化運動の歴史的経過を追いながら、そして日本の東海大学事件の際の検察側の安楽死研究への協力や法廷における証人としての経験を通し考え続けてきた筆者として、今回オランダにおける法律制定のニュースに接して、オランダ国民の絶えざる真摯な努力に感無量の気持ちとなり、感慨を込めてオランダ安楽死法のもつ歴史的背景と国民感情について回顧して報告する次第である。