時の法令1646号, 58-69, 2001年7月30日発行
民主化の法理=医療の場合 78


ヒト幹細胞研究の展望 -重要性を軸として-

星野一正


●まえがき

    ヒト幹細胞の研究は、今や日本を含む数か国において、早急な臨床応用を目指して、活発に推進されている。

    特に、世界で最初に、一九八一年に「マウス多能性胚性幹細胞」(murine pluripotential embryonic stem cell)の樹立に、英国のケンブリッジ大学のエバンス(M.J. Evans)とカウフマン(M.H. Kaufman)が成功(Nature 292: 154-156, 1981)して以来、精力的に研究を推進してきた米国を筆頭に、胚性幹細胞(ES細胞)のみならず、種々の幹細胞からの色々の組織や臓器の開発の研究が盛んになっている。

    米国連邦政府は、連邦政府の資金を用いてヒトのクローニングの研究をすることを禁じているが、ヒト多能性幹細胞の研究に対しては、同資金の使用を容認している。

    そこで、米国国立衛生研究所(National Institute of Health : NIH)では、「ヒト多能性幹細胞研究に対するNIH指針」の草案(一九九九年十二月)を、また、米国国家バイオエシックス諮問委員会(National Bioethics Advisory Commission : NBAC)では「ヒト幹細胞研究における倫理的問題点の執行上の適用」の草案を同じころに発表した。この二つの草案は、本誌一六四〇号と一六四二号で紹介した。

    日本政府は「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」を平成十二年十一月三十日に国会で成立させ、同年十二月六日に公布し、本年六月に施行した。

    文部科学省も、ヒトES細胞に関する研究は承認しており、「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針」(案)を作成し、広く社会に意見を求めた。現在、最終的なチェック段階にあり、本論文執筆時点では、確定した指針を本年七月下旬に公表の予定としている。

    そこで、上記指針(案)にある構想について、簡略に紹介し、日本における研究体制について解説する。

●文部科学省「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針」(案)の概要

    第一章 総則

    目的、定義、対象、ヒト胚(embryo)に対する配慮、ヒト胚の無償提供についての指針を規定

    第二章 ヒトES細胞の樹立

    第一節 樹立の要件
    ヒトES細胞の樹立、樹立の用に供されるヒト胚に関する要件、ヒト胚の取扱者についての規定

    第二節 樹立機関の基準
    「樹立機関の基準」「樹立機関の業務等」「樹立機関の長」「樹立責任者」「樹立機関の倫理審査委員会」

    第三節 樹立の手続
    「樹立計画書」「樹立の手続」「樹立計画に係る文部科学大臣の確認」「報告」「研究結果の公開」「樹立機関に関する特例」

    第三章 ヒト受精胚(*)の提供

    第一節 インフォームド・コンセント等
    「インフオームド・コンセントの受取」「インフォームド・コンセントの手続」「インフオームド・コンセントの説明」「インフオームド・コンセントの確認」「ヒト受精胚の提供者の個人情報の保護」

    第二節 提供医療機関
    「提供医療機関の基準」「提供医療機関の倫理審査員会」

    第四章 ヒトES細胞の使用

    第一節 使用の要件
    「使用の要件」「禁止事項」「ヒトES細胞の取扱い」「分化細胞の取扱い」

    第二節 使用の体制
    「使用機関の長」「使用責任者」「使用機関の倫理審査委員会」

    第三節 使用の手続
    「使用計画書の使用機関の長の了承」「使用の手続」「使用計画に係る文部科学大臣の確認」「報告」「研究成果の公開」

    第五章 雑則

    「関係行政機関との連携」「指針違反の公表」

    附則

    「施行期日」「指針の見直し」

* 新語の導入に対する疑義と提言

    ヒト受精胚について、第一章の「定義」に、《ヒト受精胚とは、ヒトの精子とヒトの未受精卵との受精により生ずる胚をいう》と解説がある。しかし、全くの新語であり、伝統ある解剖学・発生学の用語を無視している。そこで、あえて新語を使用していることへの疑義と提言をしたい。

    もし、ヒトの精子以外の、たとえば他の動物の精子あるいはク□-ンの際の体細胞の場合を考慮して、新しい定義の必要性を考えての上の新しい定義とするならば、「ヒト受精卵による胚子」は、従来通りに、日本の伝統あるヒト発生学用語である「ヒト胚子」として、他の動物の場合には「胚仔」を使い、体細胞によるクローンの場合には「クローン胚子」とし、種々のキメラによるものはヒトが妊娠した場合には「キメラ胚子」、動物が妊娠した場合には「キメラ胚仔」と呼んだら、誤解もないのではなかろうか。

    「ヒト受精胚」及び「胚」という用語は、「ヒト発生学用語」としてはかつて存在していなかった新語である。受精して胚子(embryo)が生じるので、受精しなければ胚子は生じない。ここでいう「受精胚」については、発生学用語では昔から「接合子(zygote)」という用語が国際的に使用されてきている。また、「胚」は昔から germ を意味し、胚子を意味したことはないのである。germ を胚とするならば、本来の germ の新しい日本語を提言するべきであるが、それは無視されており、無責任であり、深く考えて用語の変更をしているとは信じられず、文部科学省がやるべき行為とは思えない。猛省を促したい。

    [以上は、米国解剖学会名誉会員・日本解剖学会名誉会員・京都大学名誉教授・医学博士としての星野一正の証言である]



●「ヒトES細胞の樹立機関」としての実施準備

    「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針案」が正式に公表されるまでの実施準備として、「ヒトES細胞の樹立機関」として文部科学省から既に任命されている京都大学再生医科学研究所では、同研究所の中に、「ヒトES細胞の樹立」に必要な研究施設を完備してある。

    また、「指針の第一四条」で定めた「樹立機関の倫理審査委員会」として、「京都大学再生医科学研究所『ヒト幹細胞に関する倫理委員会』」を既に設置した。

    東京の帝国ホテル五階の五一二号室に平成十三年四月に開設した「京都大学リェゾン・オフィス」において、「第一回倫理委員会」の会合を、平成十三年六月十三日に開催し、終了後に、京都大学再生医科学研究所の山岡義生所長と星野一正委員長とが記者会見を行い、情報を提供した。

    「ヒト幹細胞に関する倫理委員会」は、既に樹立責任者から「樹立計画書」を受理してはいるが、「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針案」が正式に発効するまでは、「樹立計画書」に関する正式な審議は開始できない。しかし、倫理委員会として、基礎的な勉強をしておかなければならないのは当然である。

    そこで、「第一回倫理委員会」の会合においては、倫理委員会結成の理由と、委員の紹介のほかに、京都大学再生医科学研究所に与えられた「ヒトES細胞の樹立」に関する専門的な解説を、樹立責任者である中辻憲夫教授から、細胞生物学の専門家ではない倫理委員会委員はビデオ解説を含めて分かり易い説明を受けた。終了後、さらに参考資料を委員に配布して、本年七月二十日に開催予定の「第二回倫理委員会」までに、各委員に専門的な勉強をしてもらい、次回には更に専門的な解説を受けることになっている。

    ○京都大学再生医科学研究所「ヒト幹細胞に関する倫理委員会」の構成
    [京都大学再生医科学研究所 所長:山岡義生医学部教授(京都大学評議員)]

    【倫理委員会構成メンバー(計八名)】

    [委員長]

    星野一正(医師・京都大学名誉教授・日本生命倫理学会初代会長)

    [学外委員(五十音順)]

    金城清子委員(法律学者・津田塾大学.教授)

    新美育文委員(法律学者・明治大学法学部教授)

    西森美保子委員(臨床倫理・京都大学旧胸部疾患病院・元看護婦長)

    藤井正雄委員(宗教学者・文学博士・大正大学前文学部長・教授)

    村上陽一郎委員(科学・技術論学者・国際キリスト教大学教授)

    [学内委員二名(五十音順)]

    岩田博夫委員(生体機能工学・京都大学再生医科学研究所教授)

    瀬原淳子委員(再生統御学・京都大学再生医科学研究所教授)

●胚性幹細胞の特異な性状と臨床応用の重要性と緊急性

    胚性幹細胞(ES細胞)は、受精卵が発育して胚盤胞(blastomere)の段階まで成長した時点で、胚盤胞の中の「内部細胞塊(inner cell mass)」の細胞(図1)を分離して、特別に処方された培養液の中で培養し続けると、ES細胞が樹立され、一定条件で培養し続けると、ES細胞は、その性質を全く変化させることもなく、長期間、無数に増加し続ける特異な性状を維持する。しかし、培養液の組成と性質を代えて培養すると、変えた培養液の条件次第で、心筋細胞、脳の細胞、肝細胞などの三胚葉性の多種多様な体内のすべての組織や器官に分化して発達するという性状をもつことが動物で証明されている。

    一九八四年五月十七日号の科学雑誌『ネイチャー』で発表されたケンブリッジ大学の三人の学者(ブラッドリー、エバンス、カウフマン)の論文「キメラ・マウス成功」の内容を簡略に紹介しておく。ちなみに、「キメラ」とは「遺伝的に異なる二種以上の細胞で構成された生きた個体」である。

    黒いマウスの胚盤胞の中の「内部細胞塊」の細胞から作成した黒いマウスの「ES細胞」を、白いマウスの胚盤胞の中の「内部細胞塊の細胞群」に混ぜておいて、その混合した胚盤胞細胞を別の白い雌マウスの子宮に胚移植して妊娠・分娩させた結果、白くない色付きの仔マウスが産まれたので、キメラの過程でES細胞は生殖細胞にも分化したことが明らかになった。

    雄のキメラ・マウス五十七匹を雌と交配させた結果、三十五匹の仔マウスが産まれた。その中の七匹が「ネズミ色の縞が入った毛並み」のマウスであったので、ES細胞が分化して、キメラ・マウスの生殖細胞をつくった証明となった。この七匹のキメラ・マウスのうち五匹からは、黒い仔マウスが産まれただけであったので、添加された黒マウスのES細胞だけが分化して生殖細胞をつくったに違いがない。

    この実験で、ES細胞から、個体を構成するあらゆる細胞並びに生殖細胞まで形成されることが、証明されたといえよう。

    このように身体の構成組織の基になるすべての細胞の「幹:stem」の細胞であるところから、「多能性幹細胞」と名付けられているのである。

    しかし、内部細胞塊由来の幹細胞の特殊培養により身体のすべての構成組織の発生は可能であるにしても、幹細胞から胎盤を発生させることはできない。なぜならば、胎盤は、胚盤胞の中の「外細胞塊(outer cell mass)」から生じる栄養膜(trophoblast)が子宮内膜に侵入して、胚盤胞が子宮内膜内に着床してから、胎盤が形成されるのであるが、胎盤の人為的形成の研究には至っていない現在、「幹細胞」から一匹の動物あるいは一人の人を誕生させることはできない。それゆえ「ES細胞」を含む「幹細胞」は多能性はあるが、「全能性(totipotentiality)」をもつとはいえない。

    新聞などで「万能細胞」という表現の報道も見受けるが、果たして「幹細胞」は「万能性 universal」であるといえるのであろうか。上述の医学的根拠に基づき、全能性とか万能性は間違った用語である。この分野の専門家自身が一九八一年以来使っている「多能性 pluripotential」という用語を、尊重して使って欲しいものである。

    これらの特殊の多能性は、最初マウスの細胞で発見されて以来、種々の動物で確認され、ついにヒトでも確認され、ヒト医療への応用を含め、国際的な関心をもたらしたのであった。

    一九九八年二月に、ジェームス・トムソン(James Thomson)は、培養中のヒトES細胞の中にアカゲザルのES細胞によく似た性質の細胞があることに気がつき、精細に研究を推進し、同年の十一月六日号の『サイエンス』に、彼が分離したヒト幹細胞をマウスの皮下に移植すると様々な組織に分化することの発見について報告した。

    同じころ、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のペダーセン(Roger A. Pedersen)も同様な研究をしており、またジョンズ・ホプキンス大学のギアハルト(John D. Gearhart)は、ヒト胎児の卵巣や精巣の一部を培養して、似た性質の細胞を分離しようとしていた。しかし、ヒト幹細胞の発見は、トムソンが一歩先んじていたのであった。

    トムソンが分離したヒト幹細胞は、内胚葉・中胚葉及び外胚葉由来のすべての細胞が正常状態で分化する「多能性幹細胞」であることが確認された。これは、画期的な発見であった。

    ヒトにおいて、どのような培養液を用いてどのような培養法を行えば希望する組織や器官を、最短時間で最も費用がかからずに発生させるかについて、米国を先頭に、国際的競争が始まった。それは、二十一世紀の医療産業が「多能性幹細胞」をはじめとする再生医科学分野の領域で急速に発展する時代になるに違いないからである。すなわち、ES細胞の培養で産生されたヒト組織や臓器は、ドナーの要らない臓器移植、組織移植として時代の花形産業になることは自明のことと考えられた。

    米国では、たとえば、ジェロン社が「ヒトES細胞に関する技術の開発特許」をもち、ウイスコンシン大学 Alumni Association が、トムソンの「ヒトES細胞技術」に関する特許をもっているように、既に多くの特許を取得している。

    それゆえ、後進の研究者は、自ら独自に発見をする努力が必要であるばかりでなく、自らの発見について一刻も早く特許を取得することが、研究に勝ち残れる時代になるのである。

    トムソンは、「ヒトのES細胞」を樹立する前に、一九九五年にアカゲザルの胚盤胞から「サルのES細胞」を樹立したが、二〇〇〇年に、京都大学の中辻憲夫教授の研究グループが世界で初めて「カニクイ猿のES細胞」を樹立し、特許出願中である。この「カニクイ猿のES細胞」は、「ヒトのES細胞」に性質が非常に似ているので、広く研究に活用でき、ヒト医療への「ヒトのES細胞」の臨床応用の前に不可欠な予備的研究として、カニクイ猿における「カニクイ猿のES細胞」の臨床検査が、貴重な役割を果たすことが期待されている。

    万人に共通の恩恵をもたらすべき医療技術に特許などという反論は、国際的には否応もなく、非現実的となっている。日本でも、日本人の「ヒト多能性幹細胞」関連の特許取得を支援する投資家が増えることを願うものである。

    米国に立ち遅れている日本の現状を、心から憂い、日本の研究者たちの奮起を願い、医学研究の第一線から退いてしまって久しい筆者は、自分では何もできない環境にいる焦燥に駆られており、せめて『ヒト幹細胞に関する倫理委員会』の委員長としてベストを尽くさせていただきたいと思っている。

●胚性幹細胞の発生学的な解説

    ① 卵割現象と胚盤胞の形成

    精子と卵子が受精して生じる接合子(受精卵)は、透明帯(zona pellucida)という袋で包まれており、接合子が卵割(cleavage)という特殊な細胞分裂を行って変化して桑実胚(morula)になる段階まで透明帯に包まれたままで、透明帯は外見上何ら変化が認められず、透明帯の内容物の総量も不変である(図1)。しかし、透明帯の機能は、単に接合子を包んで保護しているだけではなくて、桑実胚になるまでの卵割現象に何らかの密接な役割をもっているに違いない、と筆者は考えている。

    卵割は、極めて特殊な「接合子の細胞膜内部のみでの分割」である。通常の細胞分裂の場合には、分裂すると二個の細胞が再生されるが、卵割の場合には、核とその周りの細胞質が二分の一ずつに半裁されるだけなので、卵割中の核の総量が不変である。つまり、受精直後の接合子の中で最初一個であった核が、二分の一に卵割して二分の一になった核が二個となり、次には四分の一になった核が四個、次には八分の一が八個、十六分の一が十六個、三十二分の一が三十二個、そして六回目の卵割により六十四分の一が六十四個となった時に、桑実胚と呼ばれるようになる。桑実胚となるまでは、透明帯の外観も大きさも不変であり、接合子を最初に包んでいた透明帯と同じ大きさの袋に包まれたままである。

    しかし、桑実胚となりかけた時点で、透明帯の袋が次第に消失し始め、桑実胚の細胞質内に母親の体液(または培養液)が侵入して急に大きくなり始め、胚盤胞と呼ばれる状態になり、子宮内膜への着床に備える状態に変化し始める。

    胚盤胞の内部は、上下に区分され、ほぼ中央から上の部分の内部に細かい細胞の塊ができて、内部細胞塊が形成される。

    内部細胞塊から、その後に胚子・胎児の身体を形成する内胚葉、中胚葉と外胚葉が分化する。内部細胞塊の下方にある細胞群は、栄養膜(trophoblast)と呼ばれ、受精卵の子宮内膜への着床に重要な役割を果たし、その後胎盤を形成していき、胚子・胎児に栄養分等を送り、排泄物を除去する大切な働きをする部分となる。

    ② 内部細胞塊の多能性(pulripotentiality)

    胚盤胞を子宮に着床させずに、胚盤胞から内部細胞塊を採取して、特殊な培養基の入った培養液の中に入れて培養すると、培養条件によって内部細胞塊の細胞は、細胞分裂をして急増し始めるが、決して分化せずに同じ性質を保った細胞のままで分裂して増殖を続けるという特殊な性質と能力があることを、前述の通り、一九八一年に、工バンスとカウフマンが、マウスの内部細胞塊の細胞で発見した。

    ③ ES細胞の分化

    ES細胞を独特に処方された培養基に移して培養すると、ある特定の細胞あるいは組織に分化することが分かっている。特に、マウスをはじめとする種々の動物のES細胞で証明されている。

    これらの情報を活用して、ヒトES細胞から種々の組織や臓器を培養して、ヒトの医療に活用できるようにしなければならず、可能になったものから、臨床応用していかなければならない。

    現在、京都大学再生医科学研究所の研究者たちはもちろん、世界の研究者たちが、ヒト幹細胞を分化させる特種の培養基の開発並びに培養方法の向上に、鎬を削っているところである。

●胚性幹細胞以外の幹細胞について

    ① 造血幹細胞…造血幹細胞として、現在すでに臨床応用されているものに、骨髄と臍帯血がある。臨床応用のために、骨髄バンクや臍帯血バンクが貢献している。

    ② 成人の体内の組織や器官にも、それぞれの幹細胞が存在して機能しているという研究も多く、幹細胞の研究はますます活発になるに違いない。

    ③ EG幹細胞…胚性幹細胞は前述のように胚盤胞からの内部細胞塊の細胞から樹立されるのに対して、妊娠八週未満の胚子あるいは妊娠八週以上の胎児の生殖腺内の始原生殖細胞(primodial germ dell)から、EG細胞(embryonic germ stem cell)が一九九二年に樹立された(Matsui et al. Cell; Resnic et al. Nature)。EG細胞は、ゲノムのインプリンティング状態などがES細胞とは異なっており、分化能がやや特殊であることがキメラ胎仔の解析から示されている(Tada et al., 1998)。

    EG幹細胞は、やや成長した胚子あるいは胎児から生きている始原生殖細胞を採取する必要があるので、ES細胞よりも倫理的問題がある。

    ④成人の脂肪組織…二〇〇一年のザック(Zuk)らの報告(Tissue Engineering 7 : 211-228, 2001)によれば、成人の体内から脂肪吸引器で吸引採取した脂肪組織は、骨髄などと同様に、間葉性幹細胞(mesenchymal stem cell)を含んでいるので、脂肪生成幹細胞、軟骨生成幹細胞、筋原性幹細胞として分化していく機能があるという。

    成人の組織や器官でも、自己組織の修復や維持のために多少の幹細胞を保有しており、必要に応じて活躍すると考えられている。

    将来、もしこのような特有な幹細胞が同定されたなら、採取した自己の組織から幹細胞を分離して増殖させて、自己の損傷された組織や器官の修復治療が可能になれば、組織拒絶反応にも、倫理的にも問題がなく、素晴らしいことである。今回のザックの報告は、少なくともわれわれに夢を与えたといえるであろう。

●ES細胞の研究並びに臨床応用をめぐる倫理的考察

    ①ヒト幹細胞は多能性であり、全能性ではないことの重要性

    ヒト幹細胞は、内・中・外胚葉の三つの胚葉から人体の構造物を創造する多能性の能力はある。しかし、その起源が栄養膜を含んでいない内部細胞塊だけのために、胎盤や臍帯を発生させることは不可能である。そのため、完全な胎児を創造するほどの全能性はなく、発生が進んでも個体として成長できない。

    たとえ将来、栄養膜から胎盤や臍帯を発生させることに成功したにしても、胎盤を機能させる母体、あるいは少なくとも人工子宮がなければ、ヒト幹細胞から生じた胎児に栄養補給も物質代謝もしてやれない。

    換言すれば、ES細胞であれ、EG細胞であれ、ヒト幹細胞には、培養をし続けても胎児どして成長する可能性は与えられていないのである。筆者が「ヒト幹細胞に全能性はない」と主張しているのは、このためである。

    医療に必要な組織や臓器をヒト幹細胞から再生させて、病気で苦しみ困っている人々を救い、社会復帰に貢献することは可能である。たとえそれしかできなくても、極めて人道的、倫理的な行為を可能にするといえよう。

    ②ヒトES細胞の活用に異議があるか?

    ヒトES細胞を樹立するための事例を考えてみよう。

    生殖補助医療に使用する目的で、体外受精によって生じたヒト胚子の中で、直ちに使用目的がないために受精後十四日以内に凍結保存されていた凍結ヒト胚子を、患者本人が「使用目的がなくなったので廃棄して欲しい」と申し出た場合に、その患者の凍結保存体外受精卵を破棄した直後、患者本人に「ES細胞の医学的並びに社会的価値について」十分に説明した上で、ES細胞のために活用することに関する「自発的同意」を本人から得られた場合には、一度破棄したその凍結保存体外受精卵を拾い上げて、文部科学省の定めた「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針」を厳守して、ES細胞の作成をし、研究並びに臨床目的で使用させていただくとする。

    ここで、倫理的に問題があるかどうか、考察を加える必要があろう。

    文部科学省の定めた指針自体に対して倫理的問題を提起する人がいるかどうかは分からないが、筆者としては、上記の指針に加えて、次のように考える。

    凍結ヒト胚子を、患者本人が使用目的がなくなったので破棄して欲しいと申し出た場合に、産婦人科医は「ご趣旨は分かりました。廃棄処分をさせていただきます。しかし、廃棄した後で、患者さんの凍結保存体外受精卵をすぐに拾わせていただいて、ES細胞のために使用させていただきたいと存じます」とお願いして、同意を得る十分な手順を追加することに、技術的に変更したい。これに対して「現実問題として、大差ない、面倒なことを」といわれる方が多いに違いない。しかし、重大な違いがあると信じるものである。その精神 :

    廃棄した後で拾わなければ受精卵は死亡する。不要になったから殺してよいまたは見殺しにしてよいというのは、非倫理的な考えである。

    廃棄物となった受精卵を見殺しにせず、拾えば、明らかに破棄物となった受精卵の生命を存続させることができて、殺さずに、人々のためになるES細胞に生まれ変わって、疾病や外傷などで苦しみ困っている人々のために奉仕し、生命を保護することになる。

    さらに、ES細胞の樹立のために、ヒト胚子を目的的につくるわけではないことを忘れてはならない。研究目的にヒト胚子を故意につくらせてはいけない。

    患者中心の医療の倫理の面から見た場合に根本的に違う「ヒト胚子の取扱い」になるという配慮からの提言である。ヒト胚子を捨てて見殺しにするのと、生かし続けて多くの人々を救うのとでは、倫理的に多大の違いがあるからである。

    ③ヒトEG幹細胞をめぐる倫理的問題

    ヒトEG幹細胞は、妊娠中絶により母体を離れた、やや成長した胚子あるいは胎児から始原生殖細胞を採取する必要があるので、ES細胞とは異なり、倫理的問題がある。しかし、米国では、既に容認している。

    ④ヒトES細胞の臨床応用についての厳しい手順等について

    文部科学省の定めた「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針」(案)に、ヒトES細胞の臨床応用についての厳しい手順等が定められ、明記されている。落ち度はないと思われる。

    ⑤ヒトES細胞あるいは、それから培養された細胞群を女性の子宮内に移植してはならない。(この条項は、文部科学省の指針(案)にはない)

    ⑥ヒトES細胞あるいはヒトEG幹細胞は、動物の胚子と混合してはならない。

    ⑦ヒトES細胞あるいはヒトEG幹細胞をヒトの生殖のためのクローニングに使ってはならない。

●むすび

ヒト幹細胞、特にヒトES細胞やヒトEG細胞の基礎的研究は、まだ日が浅く、今後の研究の競争は激しいに違いない。その焦りから、生命倫理的に許容し得ない行動が世界のどこかで起こることもあり得るであろう。十分な監視と自重を要すると思われる。

日本は、米国などに比べて、やや出遅れの憾を禁じ得ないが、日本の研究者のレベルと層の厚さから、十分に太刀打ちのできるスタートラインにいると考えられるので、功を焦って、躓きを起こさないようにしていただきたい。また、倫理委員会としても、文部科学省や厚生労働省などとの緊密な関係において、世界の情勢や将来の見通し等についてもよく勉強をして、慎重に、堅実に、研究者各位に協力して、研究以外のことは倫理委員会に任せて、安心して研究に没頭していただけるように、倫理委員会として努力して参りたいと思っている。

* アンダーラインは掲載者による。