性同一性障害者はもちろん、この問題に取り組んできた医師や研究者など関係者にとっても、今までの努力が報われたという喜びで、興奮した。
この法案は、同年七月一日に衆議院予備審査議案として、翌二日に衆議院議案として受理され、同月九日に衆議院審査結果が可決され、その翌日に、衆議院審議が終了して、可決した。
一方、参議院においては、同年七月一日に議案が受理され、翌二日には、審議の結果、可決されていた。
二〇〇三年七月一六日に、本法律は、法律第一一一号として公布された。
その全文は以下のとおり。
一
二十歳以上であること。
二
現に婚姻をしていないこと。
三
現に子がいないこと。
四
生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
五
その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。
2 前項の請求をするには、同項の性同一性障害者に係る前条の診断の結果並びに治療の経過及び結果その他の厚生労働省令で定める事項が記載された医師の診断書を提出しなければならない。
2 前項の規定は、法律に別段の定めがある場合を除き、性別の取扱いの変更の審判前に生じた身分関係及び権利義務に影響を及ぼすものではない。
第二十条の三の次に次の一条を加える。
第二十条の四性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(平成十五年法律第百十一号)第三条第一項の規定による性別の取扱いの変更の審判があった場合において、当該性別の取扱いの変更の審判を受けた者の戸籍に在る者又は在った者が他にあるときは、当該性別の取扱いの変更の審判を受けた者について新戸籍を編製する。
日本においても、既に日本精神神経学会が、性同一性障害を疾患として認定している。日本精神神経学会は、「性同一性障害に関する特別委員会」(委員長:山内俊雄)からの一九九七年五月二八日付けの「性同一性障害に関する答申と提言」の中で、性同一性障害の診断と治療のガイドラインを含めて詳細に公表した。これは、性同一性障害の「初版ガイドライン」と呼ばれた。
これをきっかけとして、日本でも長年にわたって混乱していた暗黒時代を抜けて、学会が、性同一性障害を疾患として、医療の対象と位置付けた。
一九九八年一月三〇日付けで、埼玉医科大学から「ジェンダークリニックにおける診療体制」が公表された。そして、同年一〇月一六日に、日本で初めて、同大学附属病院において、「初版ガイドライン」に従って、性同一性障害に対する治療として性別適合手術(sexreassignmentsurgery,SRS)を実施した。
その後、学会では、「性同一性障害に関する第二次特別委員会」により、二〇〇二年七月二〇日に「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第二版)」(通称、改訂第二版ガイドライン)を発表し、現在は、これが臨床家によって使われている。
現在では、埼玉医科大学附属病院のみならず、岡山大学医学部附属病院の精神神経科においても性同一性障害についての診断と治療が実施されている。
しかし、いまだに性同一性障害についての日本での社会的認識は非常に低く、十分に理解されている状態には程遠く、性同一性障害の人々が苦しい社会生活を余儀なくされている。
今回の、性同一性障害に関する法律の制定をきっかけとして、社会における性同一性障害に対する理解が進み、性同一性障害者に対して暖かい支援が与えられることを、切に祈る気持ちで一杯である。
虎井まさ衛君は、米国で性転換手術を受けて、“おんなから”おとこに性の転換をしたばかりでなく、今回の法制化のために、筆舌に尽くしがたい苦労を重ねてきたことを、忘れてはならないと思う。虎井まさ衛君、この名前は実は、法政大学文学部出身の文筆家としてのペンネームなのである。
彼は法制化運動で苦労している最中の二〇〇三年七月二〇日、『男の戸籍をください』という題名の単行本を、毎日新聞社から出した。その「はしがき」の一部に、次のように書いている。
「生まれつき身体と心と戸籍上の性別が一致している人々は、そんなにも幸せな人生を生きているのに、それに気づいていないのだからもったいないことだと思う。そう、心身の性と社会生活上の性が一致した、『フツーの一般市民』である境地なんと幸せな『当たり前の身分』であることだろうか。」
この淡々とした文章の中にこめられた虎井君の辛い悲しい想いが一層伝わってくるように思えてならなかった。この「当たり前の身分」が「当たり前でない」性同一性障害患者の今までの人生だったのだから。いや、今でもである。なぜならば、「この法律は、公布の日から起算して一年を経過した日から施行する。」と明記されているので、戸籍の記載が変更されるのは、一年余後ではあるまいか。さぞかし待ち遠しいことであろう。
虎井君との思い出は多いが、「女性から男性になった虎井君」と「男性から女性になった坂本愛子さん」を招いて、京都女子大学で筆者が開いた公開講演会での講演の後、筆者が発行していたニューズレターに虎井君が「二月末日の目覚め」と題した随筆を投稿して下さった。この随筆を紹介したい。
「私は、昔から人前で何かをするのが嫌いであった。大勢の人の前で話をするくらいなら、三日間押し入れにとじこめられた方がマシなくらいであった。しかし、年も長じ、性同一性障害についての啓蒙活動が仕事の一つとなってからは、そうも言っていられなくなり、今では年に三回以上は、かなりの数の人の前で話さなくてはならない生活を送っている。
とは言え、ほとんどの場合は、司会の人とのトークにしたり、最初から質疑応答にしたりして、自分一人で長々と話をすることは避けてきた。準備が面倒なわけではなく、『壇上にいるのは自分一人ではないのがよい』『行き当たりばったりで話をしていった方が自分としてはアガらずにすむ』といった理由があるのだ。 だから二月二十八日に京都女子大学で『性転換手術で救われた二人の物語』というテーマで四十五分程話してほしい、と言われた時は『いやだな?』と思った。そんなに長い時間一人で話したことはない。もし二人の内のもう一人、私の年長の友人である坂本愛子さんが断ったら、私も断ろうと思っていた。
ところが坂本さんの話がよかったためであろうか、関西の人々は涙もろいのか(ちなみに私は東京の生まれ育ち)、我々の講演の最中に涙を流している人を何人も見かけた。これは初めての経験であった。性転換者の話が、当事者でもない人々の心をこれほど揺さぶることがあろうとは、考えてみたこともなかった。
講演後、図々しくも拙著の即売会などをやらせて頂いていた私に、何人もの方が声をかけて下さった。そして皆さん、『本で読んだだけで分かった積もりでいたけれど、本人の肉声で聞いてみるとやはり違う。改めてこの問題の深さを知った』と言って下さった。
逆に私は改めてこの日、講演というものの本当の力を教えてもらったのだった。他人から話を引き出して貰うトークもよかろう。しかし、たとえ準備不足であれ、自分で構築した小さな世界をその場にいる人々の前に広げて見せて、思いを共有して貰ったこの日のような形の講演というのは、私が今まで考えていた以上に貴重で厳粛な機会なのだ、と本当に初めて目覚めたのであった。
とても感謝している。この日を境に私は、『人前で話をすること』に対する姿勢を正しいものにすることができたのだ。
自分自身、『理論より実践』派の人間であることは十分知っている。つまり難しいハナシができず、自分が経験したことをトツトツと語ることしかできない。それが情けなくて自分一人での長話を避けていたフシもある。だが気持ちを改めた。難しい話を聞きたい人には物足らなく感じられるかもしれないが、生きて、悩んで、そして幸せになった者の真実のストーリーしか私には語れず、それでいい、と今は思える。性同一性障害ではないにしても各々悩み苦しみを抱えて暮らしている人々に、人間同士として共鳴してもらうために。」
苦しみながら、性同一性障害の社会的認知のために長年努力し続け、ついに性同一性障害の法制化運動を成功に導いた友人虎井君の絶えざる努力と辛抱強さに、心からの敬意を表したい。
今から一年後に、法律が施行され、戸籍上の性別まで、女性から男性に変更になった時の虎井君の感動はいかに、と今から筆者は期待している。その時にこそ、心から「おめでとう」といってあげたい。
現在、虎井君と同じような状態で苦しんでいる筆者の友人たち?彼ら並びに彼女たちにも一緒に喜びのお祝いをしてあげられるのが嬉しいし、待ちわびているところである。