日経新聞7月28・29・30日

遺伝子
解放された資源(上・中・下)


日経新聞 1999年7月28日(朝刊)

市場争奪戦のカギ
米の猛攻、追う日本

三十数億年の進化を通じ生物の体内に蓄えられてきた情報が一挙に解き放たれよろとしている。バイオ技術の進展で「生命の設計図」とも言える遺伝子の解読が急加速、医薬や農業などへの利用の道が大きく広がってきたからだ。遺伝子情報というこの新たな"資源"をいち早く手に入れられるかどうかが二十一世紀の競争力を大きく左右する。日米欧各国の企業や政府は入り乱れて新資源の囲い込みに動き始めた。

「もっと速く」

    「このままだと先に特許を押さえられる。もっとスピードアップできないか」ーー。農水省農業生物資源研究所(茨城県つくば市)でイネの遺伝子解読に取り組む佐々木卓治上席研究官は焦りを隠さない。この分野では日本が世界をリードしてきたとの自負が米国の一ベンチャー企業に脅かされているのだ。脅威の源は米メリーランド州にあるセレーラ・ゲノミクス。人間や穀物の遺伝子解読を専門に手がける企業だ。従業員はわずか二百人ほどだが、社内に整然と並ぶ最新鋭の解読装置二百二十台は米政府のどの研究所が持つ解読能力をも上回る。大株主、提携先として、解読装置メーカー最大アのパーキン・エルマーと、コンパツク・コンピューターが背後にいる。

    そのセレーラがイネの遺伝子解読を二〇〇一年までに完了させると宣言した。日本の計画は二〇〇七年完了で、今のところ読み終わったのはまだ全体の約〇・一%にも満たない。先行する日本を瞬く間に抜き去る計画だ。

生物学の時代

    「スピードこそ競争力」と同社のアンソニー・カーラページ博士は言う。解読した情報は通信回線を通じて即時に顧客へ有料で流す。製薬大手のノバルティスなど三社と情報提供の契約済み。

    解読した中から、例えばイネの収量を増やしたり乾燥地での生育を可能にする情報が見つかるかもしれない。それを特許にできれぱ新品種の独占的な供給が可能になる。ジーン・イズ・マネー(遺伝子は金なり)。米国ではセレーラのように遺伝子情報をいち早く解読して売るベンチャーが相次いで登場。一方で遺伝子組み換え作物のトップ、モンサントがこの一年ほどの間にトウモロコシ種子のベンチャーなど四社を約七千三百憶円で傘下に収めるなど、買収劇が進行する。「遺伝子への投資は農業バイオでの優位に不可欠」と同社のマーサ・シュライシャー博士。医薬、食品などバイオ関連市場は二〇ニ五年に米国だけで約三百兆円に膨らむとされる。たった一つの遺伝子特許が市場争奪戦で決定的な優位をもたらす可能性がある。「過去五十年は物理学の時代だったが、これからの五十年は生物学の時代になる」。クリントン米大統領は、米国に強い産業競争力をもたらした情報通信に次ぐ戦略技術としてバイオを位置づけ、巨額の研究費を投じてきた。人問の遺伝子(ヒトゲノム)解読計画を推進する国立衛生研究所(NIH)だけでも予算は約一兆九千億円。日本政府がバイオ研究に投じる約五千億円を大きく上回る。

官民で巻き返し

    欧州連合(EU)も遺伝子研究を加速している。九八年にスタートした域内共同研究五カ年計画でバイオ関連は前期の四倍増。「集中的な投資で新産業を創造する」とEUの生命科学担当者は言う。「日本のバイオはどうしてこんなに遅れたのか」。七月半ばに自民党本部で開いたライフサイエンス推進議員連盟の会合で加藤紘一前幹事長は語気を強めた。政府は「科学技術創造立国」を旗印に科学研究費を増やしてきた。にもかかわらず米国との格差は開いた。国内では学者にも企業にも「遺伝子研究は基礎科学」との思い込みがあった。危機感を強めた産業界は製薬、食品、情報通信など五十社以上の企業トップが集まり日本バイオ産業人会議(代表・歌田勝弘昧の素相談役)を結成して産業再生の一環としてバイオヘの重点予算を政府に要望。通産、科学技術、農水など五省庁は今月十三日、今後五年問に二兆円を追加投資するバイオ産業育成基本戦略をまとめた。国ぐるみの巻き返しが始まる。


日経新聞 1999年7月29日(朝刊)

新薬の”鉱脈”探し
所有権に対立の芽

北大西洋の島国、人口約二十七万人のアイスランドは遺伝子で国おこしを狙う。
「国民の遺伝子は資源。これを世界に向けて売る」。首都レイキャビクにあるデコード・シェネテイクスの最高経営責任者(CEO)、カリー・ステファソン氏は言う。

無料で成果還元

    同国では昨年十二月に国民の遺伝子情報をデータベース化する法律が成立。病院で診療を受けると「遺伝子を提供しますか」と書かれた同意書が患者に手渡される。同意すれば血液を提供、そこに含まれる遺伝子の情報はコンピューターに蓄積される。このデータを管理し情報を製薬会社などに売るのが、国の後押しで生まれたデコード社だ。スイスの製薬大手、ホフマン・ラ・ロシュはこのデータの一部を利用する権利を二億ドルで獲得した。データをもとに生まれた新薬をアイスランド国民には無料で提供する条件付きだ。

    アイスランドは他の地域との交流が少なく六、七百年前までたどれる家系図を持つ一族も珍しくない。家族関係や病歴から遺伝子と病気の関係を調べるのに最適の条件がそろっている。ロシュのクラウス・リンドペインター副社長は「新薬開発に欠かせない宝の山がある」と話す。

    世界の製薬企業は今「テーラーメード医療」と呼ぶ新しい治療法を目指している。患者の体質に合わせた薬を処方、治療効果を最大限にしつつ副作用を減らす治療法だ。病気や薬に関係する遺伝子を解明することで実現できる。遺伝子資源の有望な「鉱脈」は米ユタ州にもある。独自の生活様式を守って暮らすモルモン教徒にも古くまでさかのぼれる家系が多い。ユタ大学のジヤン・マーク・ラロエル教授が示した家系図は長さ十メートル、千人を超える名前が記される。ここから「糖尿病や高血圧に関係する遺伝子を見つけ出したい」と話す。

    すでにユタでは乳がん遺伝子の割り出しに成功した研究者がベンチャーを創業。開発した乳がんの診断薬でひと山当てた。遺伝子という「金鉱」を求めて企業や研究者が続々とユタに集まっている。

「石油と同じ」

    島国の日本も遺伝子探しに適した場所だ。政府は七月半ばに打ち出したバイオ産業育成策で日本人の遺伝子データベース作りに着手する。コメを返してほしい--。韓国政府が突然、日本が太平洋戦争前に韓同から持ち帰ったコメの品種の返還を求めてきた。持ち帰ったのは韓国固有の品種で同国内では絶滅してしまったもの。農水省は九州大学で保管されていたのを見つけて今年三月に約百品種を返還した。「韓国は品種改良など研究用に必要だと聞いている」と、返還に協力した佐藤光・九大教授は話す。

    遺伝子という新資源を巡って「金や石油などと同じような争奪戦が起き始めた」と、世界銀行傘下の国際植物遺伝資源研究所(ローマ)の岩永勝副所長は言う。

取引市場構想も

    ロンドンのキュー植物園は大英帝国時代から世界各地で収集した四万種に及ぶ植物の遺伝子情報を活用、企業と共同研究を始めた。すでに英医薬・農薬大手のアストラゼネカなど八杜と契約した。

    しかし植民地時代の収集の商業的な利用には途上国に根強い反発がある。九三年に発効した生物多様性条約は加盟国に自国内で育つ動植物の利用を管理する権利を認めた。動植物の持ち出しを制限したり、動植物の遺伝子を利用して医薬品を開溌した場合にそこから得られる利益の一部を請求できる。中国、ベネズエラなどは動植物の国外持ち出しを制限する政策を打ち出している。

    国連食糧農業機関(FA0)は遺伝子資源の取引のための市場創設に動き始めた。各国が保有資源を市場に登録、ほしい国は保有国と交渉して価格を決める。売り買いの情報は原則公開だ。九月の会合で基本合意を目指すが「合意は微妙」(農水省)。資源を持てる国と持たざる国との利害調整は難航している。


日経新聞 1999年7月30日(朝刊)

市場へのハードル
倫理議論置き去り

「発芽ターミネーター」と呼ばれる技術が論議を呼んでいる。遺伝子組み換え作物の開発企業は農家にその種子を売るのが商売。育てた作物から得た種子で農家に無断で作物を増やされては困る。そこで発芽をコントロールする遺伝子を種子に仕込んで二世代目の種子から発芽能力を奪う。これがターミネーター(根絶やし)技術だ。

情報不足が問題

    米農務省と、細み換え作物最大手のモンサントの子会杜が技術を開発。多額の研究費を投じた組み換え作物という「知的財産の保護」(農務省)を狙い実用化を目指している。しかしターミネーター遺伝子を持つ作物が偶然に他の植物と交配し「遺伝子が自然界に広がったら多くの植物が絶滅してしまうのでは」と利用に反対の意見がある。組み換え作物に対しては、欧州で安全性への不安を理由に排斥運動が起き、米欧間の通商摩擦に発展しつつある。

    種子会社ノバルティス・シードのウォレス・ビバスドルフ研究開発部長は「消費者に組み換え作物について十分な知識が行き渡っていなかった」と振り返る。社会にどう受け取られるかが、市場創山への最大のハードルだ。

突然の解雇通告

    「残念だが辞めてほしい」−−。米ミシガン州在住のクリスティン・デマークさん(37)は上司に突然こう告げられ解雇された。ハンチントン病の遺伝子検査で陽性の結果が出た直後のこと。ハンチントン病は四十代以降に発症する例が多い難病。デマークさんは「検査に基づく不当な解雇」として会社を訴えた。争いは最終的に示談になったが「会社が従業員の遺伝子情報を得るのを禁ずる法律が必要」とデマークさんは主張し続ける。

    米国の非政府組織、シュライバーセンターの調べでは、遺伝子情報をもとに雇用や保険加入で不利な扱いを受ける例が増えている。遺伝子検査がビジネスになるとともに「ますます広がりつつある」と、同センターのドロシー・ウェルツ博士。個人の体質に合わせて薬をあつらえる「テーラーメード医療」がこれから普及すると、遺伝子検査は日常的なものになっていく。国内でも遺伝子検査会社はすでに十社を超える。病気の診断や親子鑑定サービスを提供、結婚相手の遺伝子を調べに訪れる人もいる。また生命保険協会の研究会が「加入を希望する本人が遺伝子検査の結果を知っているならば保険会社にも告知すべきである」との見解をまとめた。「国内では遺伝子が社会問題として表面化していないが、下地はすでにある」と武部啓・近畿大学教授はみる。

    米国では昨秋、胎児の遺伝子操作の是非が論議になった。南カリフォルニア大学の医師が胎児への遺伝子治療の解禁を政府に提案した。先天性の病気を生まれる前に治すため遺伝子に手を加える。解禁はされなかったが、こうした考え方がエスカレートすると、遺伝子操作で親が子供を望み通りに「デザイン」することにもつながりかねない。

生命操作へ警鐘

    遺伝子を意のままに扱うことが人類にどこまで許されるのか。動植物や人間自身に手を加えることで「人類は第二の創世記を書こうとしている」と、生命科学に詳しい米国の評論家、ジェレミー・リフキン氏は警鐘を鳴らす。

    新産業を生み、国の競争力を左右する遺伝子資源の獲得や利用に科学者や企業は懸命だ。しかし「急テンポの実用化に倫理面などでの検討がついていっていない」と英ケンブリッジ大学のオノラ・オニール教授(生命倫理)は指摘する。遺伝子を利用する産業が社会に定着していくには、技術の功罪を科学者や企業がわかりやすく説明したり、客観的に技術を評価する仕組みを作るなど、新しいルールが必要になってくる。

この連載は平崎誠司、竹下敦宣が担当した。

日経新聞、1999年7月29,28,30日


用語解説(上記記事に含まれているものです)

遺伝子

    手足や心臓など体各部の作り方などを記録した情報の固まり。親から子へ世代を超えて継承される。細胞内にある長い鎖状分子DNA(デオキシリボ核酸)に、その構成単位の小分子(塩基)の配列として情報が記録されている。人聞の場合、塩基の並びが約三十億。そこに書かれた遺伝子は約十万。
テーラーメード医療

    個人の体質に合わせて薬をあつらえる新しい医療。人により薬の効き目が違うのは遺伝子が個人によってわずかだが異なるため。遺伝子の解読を通じて、がんや糖尿病などの治療で患者に最も適した薬が提供できると考えられている。
遺伝子検査

    遺伝子を調べて病気になる前に発症を.予測する技術。例えば高血圧遺伝子を持つとわかった人は発症を防ぐため健康管理に気を配ることができる。しかしがんや遺伝病ではいたずらに不安を与えたり中絶を促す恐れがあるなど問題も指摘される。
写真説明(略)

    上:遺伝子をデータベース化する(アイスランドのデコード社)
    中:新薬のタネを求め遺伝子を調べる(スイスのノバルティス社)
    下:組み換えトウモロコシの栽培(米イリノイ州のモンサント社実験農場)