【培地のお話】

1:古典的な培地

高岡聡子

「40年前にはね・・・」というお話から始めます。

天然に生息している生物を外的条件を制御することによって人工的に生かし増殖させる「培養」という技法は、細菌学においては1870年代すでに始められていました。培養条件の中でも殊に重要な培地の設定は、その生物が生存し増殖していた環境に近いものが選ばれたのは当然のことでしょう。1900年代には、扱いやすくて、安定した増殖が得られる細菌培地として、肉汁やイーストエキス、寒天などが使われていました。

 多細胞生物である動植物の生体の一部を体外に取り出して培養する試みが本格的に始められた今世紀初頭、培地の設定にはやはり、培養しようとする組織が生きていた環境になるべく近いものが選ばれました。それらのものから現在つかわれている培地に到達するまでに、先人たちは試行錯誤を繰り返し、気の遠くなるような実験を重ねてこられたことでしょう。

 そして、いよいよ私が組織培養を習い始めた「40年前にはね・・・」となります。そのころ、鶏胚組織が培養にひろく使われていました。培地は鶏血漿に鶏胚組織抽出液を加えたものでした。血漿は組織抽出液を加えると凝固して軟らかい固形状態になり、その中に埋め込まれた組織片から細胞が生え出していました。細胞はガラス表面に直接接着することはできない、血漿を使った凝固培地が細胞に足場を与えているから細胞はガラス面に接着して増殖できるのだと信じられていました。実際、鶏の採血に失敗して、ヘパリン量が規定より濃くなった血漿を使うと、培地が凝固せず、細胞が増殖しないという結果に終わることがありました。

 固形培地の中で細胞を飼っている限り、細胞を定量的に扱うことは困難でした。そこで、動物細胞をばらばらにして細胞単位で扱いたい、細菌なみに液体培地の中で増殖させたいという目的で実験が繰り返されました。

 先駆者はアール先生の一門でした。「足場として穴あきセロファンを使えば、血漿を血清に代えられ、栄養分としても事足りて、凝固しない液体培地で細胞を培養できる」という論文でした。同じ道を追っていた私の恩師・勝田甫先生は直ちにアール先生に手紙を出し、やがて穴あきセロファンが届きました。セロファンは透析などに使われている上質なもので、1ミリほどの小さな穴が規則正しくきれいにあけられていました。適当な大きさに切り揃えた穴あきセロファンを、アセトン、エーテル、アルコール、蒸留水でそれぞれ2回づつ洗浄し、高圧滅菌するという面倒な作業がそのころの私の日課になっていました。培養容器のガラス面に組織をおき、培地で湿らせた穴あきセロファンをかぶせ、液体培地を加えるという培養法で鶏胚心臓組織から繊維芽細胞が元気よく増殖していました。

 この培養法が活躍したのはごく短期間でした。酵素などを使って組織片から細胞をばらばらにでき、それらの細胞は足場がなくてもガラス面に接着して増殖することがわかったからでした。そして組織培養は急速に細胞培養へと発展してゆきました。

 液体培地での細胞培養が可能になっても、1950 年代に鶏胚組織からの細胞を培養するには、鶏胚組織抽出液が必要でした。そして、世界中の培養屋が鶏胚組織抽出液から「増殖促進物質」を精製しようと熱くなっていました。勝田先生もその戦列に加わりました。まず 50 個から 100個もの有精鶏卵を孵卵器であたため、9日目の鶏胚を無菌的につまみ出し、ミキサーにかけてつぶし、3回凍結融解を繰り返して細胞を殺し、遠沈した上清が培地成分になりました。この抽出液の増殖活性は低温でも数日しかもたないもので、集めた上清を保存するには、1 づつアンプルに分注して、凍結乾燥するという厄介な作業が加わりました。そのころの凍結乾燥機はガラス管を繋ぎあわせたような機械で、アセトンの入っている冷却槽にドライアイスを切れ目なく補充しなくてはなりません。片方で真空ポンプがごとごとと廻っていて、青い光の放電管で真空度を確かめながら、完全に乾燥させるのにほぼ1日かかりました。真夜中に、誰もいない薄暗い廊下を通り抜けて講堂裏の凍結乾燥室へとドライアイスの追加に通うのは、二十代の私にとって恐ろしい仕事でした。

 次に待っていた仕事は、その鶏胚組織抽出液から増殖促進物質を精製することでした。幾つかの実験を経て、有効成分は高分子であることまでわかりました。伝研時代の勝田先生の研究仲間であった西岡久壽彌先生が、核酸ではなかろうかとの意見を出されました。世の中は、ワトソン・クリックの DNA 二重螺旋提唱がトピックスでした。一気に追い詰めようと作戦が練られました。ちょうどアイソトープが生物実験に使われ始めた時で、早速、有精鶏卵に放射性リン酸を注射しておいて、発生の過程で放射性リン酸を取り込んだ鶏胚を取り出して、核酸を精製しようということになりました。半減期の短いアイソトープを使う、しかも経験者などいない実験ですから、研究室は殺気立っていました。「触るな!」「こぼすな!」という叱声が飛ぶ中での緊張の毎日でした。でも実験は失敗でした。リン酸がラベルされた核酸は見事に精製されたのですが、肝心の細胞の定量性が今ひとつで、放射性核酸の取り込みを確認するまでにいたりませんでした。雨のショボショボと降るある日の夕暮れ時、「この卵の殻をグランドの隅に埋めてこい。『一尺掘って埋めるように』と書いてあるからシャベルを持って行けよ」という命令が終止符でした。いま思えばいくら半減期の短いアイソトープとはいえ、乱暴な後始末でしたが、アイソトープを使い始めたころはそれが正規の規則のようでした。

 その後、ラクトアルブミン・イーストエキス培地や合成培地が登場し、培養材料も鶏胚から哺乳動物へと変遷し、有効成分が確定されないまま鶏胚組織抽出液の出番は激減しました。血漿も使われなくなりましたが、バトンタッチされた血清は今でも培地成分として重要視されています。


参考文献