【培地のお話】

14:培地と水の話

高岡聰子
 1983年、日本細菌学会で「細菌学で扱われる『水』の問題」についてシンポジウムが開催されました。主催者の赤真清人氏は「実験を行うにあたって、使用する器材や薬品などには細心の注意を払いながら、実は最も必要な『水』に対する理解を等閑にする傾向がある」と述べられました。

 第一演者は上平恒氏で、「水の物性」について詳細に述べられました。私には難かしすぎる内容でしたが、心に残ったのは「生物分野の人達は安易に『純水』といわれるが、純粋水を採るのは大変難かしい。沸騰させないで、低温蒸留をしなくてはならない」「水はある条件で粘度が圧力とともに減少するという他の液体にはない特異性をもつ液体である」ということでした。

 本間玲子氏の「水と内毒素」では多数の研究室から純水を集め、それぞれの菌数と内毒素を検査し、内毒素含量についてはイオン交換樹脂を通したいわゆる脱イオン水は高く、蒸留水は低いという結果が発表されました。そして容器の出口の部分の水からは多数の菌が検出されたそうです。それらの結果から、純水というからには「精製装置自体の良否を問うことだけでは不十分で、採水後の保存をも含め一貫した管理運用が重要であろう」と述べられました。

 「精製水の製造と管理」の長崎泉吉氏も、「微生物の栄養が含まれていないと思われる高グレードの精製水中に微生物が存在することは興味ある問題だ」との感想でした。そして「自分の目的にあう水が得られる製造装置を選び・・・、その装置に安定した性能を発揮させ・・・、日常の維持管理が必要であり・・・、貯蔵法が適切でなければならない。精製水は必要とする時に、必要量だけ調製するようにしたい」と結んでおられます。

  私は「組織培養に用いられる水の問題点」という演題で講演しました。

 純水装置など無かった50年の昔には、組織培養に使う水は再蒸留水では不十分だ。3回は蒸留しなくてはならないと言い伝えられてきました。何回蒸留すべきかについては、元の水の性質にもよると思われます。アメリカと違って日本は水がいいから再蒸留水で十分だろうという意見もありました。

 それでは、実際に組織培養に使う水はどの程度純粋でなくてはならないのでしょうか。私の経験からは、もし血清あるいは血清蛋白が添加されるなら、短期間の培養細胞の増殖には水道水(取水後直ちに高圧滅菌をして塩素を除いたもの)で作った培地で十分でした。

 しかし、無蛋白無脂質完全合成培地で細胞培養を試みるには、水は重要な問題になります。私たちの研究室で樹立したP3細胞系は完全合成培地で増殖を続けている亜系です。脂質代謝の研究者からP3細胞系がほしいとのことで、培地や継代法について詳しいデータをつけて送りました。ところが実験に使うまでに細胞が死滅してしまったので、P3細胞系の培養法を研修させてほしいということで、1カ月ほども滞在されたでしょうか。もう大丈夫と細胞と共に帰られました。ところがまたまた細胞は死滅、今度は妻子ともども上京、結局、私たちの研究室で一仕事が完結しました。その後もなかなかP3細胞系はその研究室に定着しなかったのですが、どうやら問題は培地に使っていた水にあったようです。というのは、「水を下さい」との依頼に驚いたのですが、培地を作る水をはるばると新幹線で医科研まで取りにこられ、その甲斐あってP3細胞系は無事に定着し、その後は水に留意することで問題は解決しました。

 私もP3細胞系を使って水をテストしてみました。バーンステッド製純水製造装置で逆浸透膜のみを通したRO水とNANOPureによる純水、そして水道の蛇口から採取してすぐに高圧滅菌した水道水で、それぞれ培地を作ってP3細胞系を1週間培養し、定量的な増殖曲線を比べました。結果は歴然でした。水道水は純水にはるかに及ばず、RO水は水道水と同程度の増殖しか得られませんでした。また水道水は採取した地域によって成績が異なり、ある街のものは細胞がほとんど死滅してしまいました

 この際立った結果をもたらす「水に含まれている増殖阻害物質は何か」についての結論は出ていません。実験的にはまず内毒素を添加してみましたが、50μg/ml までは増殖阻害がみられませんでした。塩化鉄で0.1mg/ml、硫酸銅で1μg/ml、硫化亜鉛で0.001μg/ml それぞれの添加でも増殖阻害はありませんでした。

 無蛋白無脂質培地では細胞がほとんど死滅してしまった水道水でも、血清を添加すれば細胞増殖が回復することから、その増殖阻害物質は容易に血清蛋白に吸着して無毒化されるものと考えられます。

 また単に純水装置で純化した水で実験するだけでなく、化学的、物理的に素性のはっきりした水で培地を作って実験に供する必要があるでしょう。そして、単に増殖率を指標にするだけでなく、細胞膜や細胞内の代謝についての生化学的な検索もしなければ、「組織培養に用いられる水の問題点」の解決まで道遠しであろうかと思います。