高岡聰子
98/08/28それに対して動物由来の培養細胞には、同様には理解しきれない不明瞭さがあります。血液細胞については、幹細胞の培養に成功しているので、分化の過程がかなり詳しく報告されています。もしすべての臓器の幹細胞が培養系として樹立されたなら、培養細胞の価値がもっと上がることでしょう。
1943年 Earle らによって、マウス皮下由来の培養細胞が発癌剤処理で腫瘍化し、当時の表現では株化、現在の言葉で不死化培養系が樹立されたという画期的な報告がありました。世界最古の組織培養細胞系 L です。
そして1952年、Gey らによってヒト子宮頚癌からHeLa細胞系の樹立が報告されました。世界最古のヒト由来培養細胞です。
その後、様々な動物の組織から利用価値の高い無限増殖細胞系を樹立するために、多くの研究者がしのぎをけずりました。その成果は現在「細胞バンク」に寄託されている膨大な細胞系のリストをみれば歴然です。
1961年 Hayflick らによって成された有限増殖系 WI-38 樹立の報告は、培養細胞の新しい展開でした。ヒト繊維芽細胞が培養内で2倍体正常性を保てるのは限度があって、ほぼ 50回分裂すると細胞としての寿命が終わってしまうというものでした。「そんなことはない。それは今までの培養条件がマウスや癌細胞で研究されていて、その条件ではヒト正常細胞は長生きできないだけではないか」という反論はありました。
のちに香川靖雄さんから「培養細胞の老化現象をヘイフリックが発見できたのに、勝田先生はなぜみつけられなかったのか」と問われました。私なりの回答としては、ヘイフリック先生のヒト繊維芽細胞に対して勝田研究室ではラットが主な培養材料でヒトの繊維芽細胞は使っていなかったことに大きな原因があると思っています。
これは1998年現在、動物由来の培養細胞はそれぞれ2倍体正常性を維持できる分裂回数が限られていること、その分裂回数は採取した動物個体の寿命にほぼ相関していること、培養寿命が切れたときヒト繊維芽細胞由来の細胞系は分裂能を失って老化するが、マウスやラット・ハムスターなどは老化する過程で変異が起こり無限増殖系へと転換する率が高いことがわかっています。
私の培養経験では、1957〜1985年に幼若ラットの肝臓、腎臓、肺臓、膵臓、心臓、腹膜、脾臓、胸腺、リンパ節、脳、皮下から原株として合計70系が樹立されています。それらは明瞭な老化期を経ずに無限増殖系へと転換しました。
ヘイフリック先生は3〜4日毎にトリプシンで分散して1:2スプリットで継代する(L.Hayflick,Tissue Culture methods and applications、1973)培養法をとられましたが、勝田研究室での私の長期培養法は「材料は初代培養あるいは2代培養を実験に使った残りを使う、あまり細胞分散はせずにひたすら辛抱強く培地更新をつづけ、形態を観察し、記録する」といったものでしたから、定量的にいつ増殖期が終わり、いつ老化状態になり、いつ不死化したかについて理論的に判然としませんでした。従って勝田先生は培養細胞の老化を思いつかれる機会がなかったのだというのが私の香川さんへの答えになります。
これらラットからの殆どの系は1〜2年後に安定した増殖系になり、いくらかの染色体異常を伴っていました。
ヒト繊維芽細胞は一定回数の分裂後に老化現象を起こして消滅し、ラット・マウスは早期に老化現象を乗り越えて無限増殖能を獲得する変異率が高いということは現在ほぼ常識になっています。そしてヒト繊維芽細胞を使っての細胞老化の研究が進展し、老化は核が支配するのか細胞質が支配するのかに始まって、今では老化に関係する染色体、遺伝子同定まで進んでいます。一方、ラット・マウスは老化を乗り越えて無限増殖系になる変異が何故簡単に起こるのか、未だに結論が出ていないのではないでしょうか。
この現象は、1940年代に始まった試験管内発癌実験の分野からみると、癌ウィルスによる変異にしても化学発癌による変異にしても放射線照射による変異にしても、ラット・マウスで成功したことがヒトでは成功しない悩みがつづきました。また、1940年代 Earle らが経験した「正常なラット・マウス」の培養細胞は無処理の対照群も培養内で自然悪性化してしまうという困った現象に行き着いてしまいました。Earle先生一門は、その原因を探るために、培養容器の洗浄法、血清を含めた培地の検討、光の影響など膨大な実験を重ねておられますが、明瞭な結論は出ていません。勝田研究室もラット肝由来の上皮細胞を使って実験を繰り返しましたが、腫瘍化するまでの日数や復元接種した動物の延命日数、復元腫瘍の組織像、培養細胞の形態的変化、染色体変化などにおいて化学発癌剤による変異より軽症ではあるものの、対照細胞群もまた結局は宿主動物を腫瘍死させてしまうのでした。
ラット・マウスの細胞は培養内発癌実験には適しているが老化を乗り越えて自然変異も起こしやすい、ヒト繊維芽細胞は老化現象の研究には適しているが培養内発癌実験には成功率が低い、これは例えばヒト細胞の染色体の安定性一つをとってみても至極当然にも思われますが、その解析はまだ十分ではありません。ヒトに近いものには、ニワトリやウマがあり、ラット・マウスの仲間にはハムスターがあります。私の経験ではサルの腎臓は初代培養からゆっくり増殖を続けて、形態、増殖率、染色体、酵素活性などに大きな変化を起こさずにいつの間にか無限増殖系になりました。
ムンチャクの胸腺は3年もの長い増殖休止期間を経て無限増殖系になり、染色体は正常2倍体ではありませんでしたが、6〜7本という少数をもつ特徴は維持していました。一方、1980年代から試みたヒト細胞の長期培養では、ガラクトース・ピルビン酸培地で自然変異を起こし不死化した細胞系以外は、へその緒、皮膚、胃壁、膀胱、骨髄などから採取したほぼ20例について、1〜15年の長期間培養が維持されたものの無限増殖系への変換はありませんでした。それらの違いを解析するには、動物種ごとに、それぞれの臓器について、培養条件について、実験を重ねる必要があるのかもしれません。
まだまだ問題は残るとはいえ、培養内での細胞の老化、増殖、変異にかかわる多くの研究のおかげで、1998年の現在では、発癌に関係する遺伝子、発癌抑制に関係する遺伝子が数多く発見されています。そして、培養内では変異しにくいヒト繊維芽細胞も、幾種類かの発癌遺伝子の導入や発癌抑制遺伝子を変異させることなどで不死化に成功し始めています。分裂増殖に関わるテロメアとテロメラーゼが発見され、テロメラーゼを活性化させることによってヒト培養細胞の不死化をはかっている研究もあります。またT抗原を導入したマウスから、分化機能をもち、正常性を維持している不死化細胞系を樹立するという画期的な業績も報告されています(M,Obinata et al,Exp.Cell Res.,1991)。
参考文献