1956年、経験を伝授してくれる師匠も先輩もない中でそれぞれ試行錯誤を繰り返していた若い研究者が集まって、組織培養研究会を始めたときの中心人物の一人が勝田甫先生です。酒豪で知られ、破天荒な生き方をした人で、エピソードも尽きませんが、手技としての組織培養を選らばれてからの人生は、「組織培養を使って癌を撲滅する」こと一点にしぼられていました。
勝田先生は東大医学部病理学教室の出身で、伝染病研究所病理学研究部に組織培養室を開設するために伝研へ移られました。伝研病理では、戦前、三田村篤志郎先生がすでに組織培養技法を使って日本脳炎などウイルスの研究をしておられたそうで、ガラス張りの立派な培養室があり、器具戸棚の中にはカレル瓶やくぼみのある培養用のスライド(Maximow slide)などが残されていました。
「伝研(現在の医科研)の病理のなかに組織培養の研究室ユニットをつくりたいという話で、東大の病理からわたしがここに移ってきたのは、ちょうど二十年前の三月である。金も物も乏しい時代だったので、かんな、のこぎり・・・など、木工金工の工具をはじめに買ってもらい、培養用の硝子器具を除いては、たいていの実験器具は自分で作った。いまも記念に手製のロッカーを残してある。
永年の相棒である高岡君がきたのはそれから一年後で、ちょうどわたしが標本を入れる棚の板を削っているときに、おずおずとドアを開けて若いお嬢さんがはいってきた。「おめえさん、これ削れるかい」という質問に、すぐさま「ハイ」というので、やらせてみると見事な削りっぷりである。よしきた採用、ときめたが、大分あとでわかったことには、彼女は戦争中学徒動員で鋳物工場の木型製作をやらされ、なんと最優秀工で、かんなの刃をとぐこともへいちゃらという次第だった。だまされたね」
「父が亡くなり、自活しなくてはならなくなって東京へ出てきたとき、先輩(勝田先生の奥様の同級生)の紹介で伝研へ面接に参りました。もちろん組織培養が何かなど全く知らない小娘でした。
伝染病研究所に着いて研究室で勝田先生に初めてお会いしたとき、先生は実験道具を作るために工作をしておられました。私に対しての最初の質問は「君は鉋がかけられるかい」ということでした。私は嬉しくなって「はい、かけられます」と答えましたが、先生はやや不審そうに「やってみろ」と言われたので、鉋を取ってみたら刃がなまっていてとても切れそうもありません。「刃を研ぎますから砥石をかしてください」と言いましたら、勝田先生は「自分で研げるのかい」とさすがに驚かれたようでした。そして直ちに採用がきまって仕事を始めたのですが、今思うと「鉋のかけられる女の子」というのはもしかすると万能選手かも知れないという誤解があったのだろうと思います。実際には私のたった一つの特技が「鉋かけ」だったのですが」
「ガン細胞の培養は、日本人には肝ガンが多いからという点で、まず正常の肝細胞の培養から始めた。しかし、ニワトリ胚(ニワトリは体外で孵化するので胎児とよばない)の肝からマウスの肝に移ったときは、条件を得るのにやはり一年かかった。臓器は同じでも種が変わると、まるで条件がちがう。ヒトの肝などは、そのころからやっているが、いまだにできない(Changのliver cell株というのは実質細胞由来ではないから、だまされぬように)」
ラッテの肝ガンの培養をはじめて、いちばん先におどろいたことは、これらが雑系ラッテの由来だからと、一流国でバカにされていることだった。コンチクショウと思って、廊下の隅に手製で棚を作り、春日部のラッテから純系をつくりはじめた。これは大変な仕事だった。目標としては吉田富三教授一門のつくられた腹水肝ガンが増殖しやすいという点をねらったが、代を重ねるとしだいに産児数が減り、いくつかの峠を越えた時、とにかくようやく純系になった。これにこりたので、もう一系つくろうということになり、こんどは産児数の多いものを選んでいるが、これは凄い。平均12匹、最大18匹を生む。Japanese Albino Ratの頭文字をとって、前者をJAR-1、後者をJAR-2と名付け、安定したら一般の方々に開放したいと考えている」
「勝田先生から「ラッテの純系を作れ」という命令が下り、伝研実験動物の鈴木先生の所へ行き純系ラッテの作り方について教えを乞うと、鈴木先生は私の顔をまじまじを眺めて「君、本気? お嫁にゆけなくなってもいいのかい。でも勝田さんの命令じゃやるしかないな」とおっしゃり、親切に指導して下さいました。それから廊下の片隅での純系ラッテ作りが始まりました。はじめのうち飼育箱は木製のみかん箱を使いました。蓋には穴を空けて金網をはり給水瓶も手製、餌は丸麦と菜っ葉という具合でした。木箱ですからラッテに齧られて逃げ出されて大騒ぎになることもありました。暑いさかりには人もラッテも共にぐんなりとのびて暑さをしのぎ、寒くなれば飼育箱に新聞紙をかけたり、ひよこ電球であたためたりしながらやっと13代まで来た頃、ラッテはトンと赤ちゃんを生まなくなってしまったのです。本当にあせりましたね。ピーナツをやってみたり、粗食にしてみたり、純系化のための必要条件20代の同腹掛け合わせが終わるまでに10年余りかかりました。同腹同士の皮膚移植も成功したJAR-1は結局絶えてしまいましたが、JAR-1と雑系の合いの子から始めたJAR-2は最短距離で純系になりました。でも結局、私はおヨメに行くことなく終わりました」
「わたしは器械屋さんや硝子屋さんと、沢山の友を得た。朝電話をかけて「おい何とかしてくれ」というと、夕方には何とかなってしまうのだからこたえられない。助手時代に関西のさる大学から教授にならぬかという鄭重なお招きをいただいたが、さんざん迷った末お断りした。その第一の理由は、こういう連中まであちらへ連れていけないし、向こうでそういう仲間を見つけて育て上げるにはまた十年かかってしまう、ということだった。わたしの論文には、これらの人々の名を共著者にあげているものもいくつかある。これらの人々がなければ、新しい段階を築くような仕事はできないからである。創造ということは本当に楽しい」・・勝田先生の項は『蛋白質 核酸 酵素』15巻5号1970年から引用・・