メンデルの実験の重要性が認識されたのは1900年になってからでした。この頃何人かの生物学者は遺伝に法則があることに気がつき遺伝子の存在に気がついたのですが、調査をしているうちにメンデルが既に報告していたことを知りました(メンデル再発見)。
メンデルはオーストリア・ハンガリー帝国領 Heinzendorf(ハインツェンドルフ)村の裕福では無いけれども、貧しくはない農家で生まれました。この村は現在チェコに属し、村の名前はHycice(ヒンチーチェ)となっています。1843年に高校を卒業したメンデル(21歳)は大学に進学するだけの財力が無かったので修道士の道を選びました。修道院は『ブリュン(現在はチェコ第二の都市ブルノ)』にあった。当時ブリュンの修道院の院長であったナップ司教は学者肌だったと伝えられており、学問的に優れた若い研究者肌の人材を集めたそうです。当時の修道院は、単に修行を行なうというだけの場所ではなく、学術的な中心地という機能も持っている場合が多かったそうです。そこでは、地域の初等・中等教育を統括したり、農業の技術指導を行ったりと、なかなか活発に活動していたようです。
メンデルは、この修道院で神学を学ぶ傍ら、近くのギムナジウムで数学やラテン語を教えていました。そして、5年後には修行僧の地位を認められ、グレゴールというホーリーネームをもらっています。
その後理科の正式教員の免許を取るべくウイーンに赴いて教員資格試験を受けたのですが何度も落ちてしまいました。しかし、好印象を持たれたことをきっかけにウイーン大学への留学を薦められたのです。そして修道院の院長の理解も得て、彼はウイーン大学で2年間勉強する機会を得たのでした(1850年)。ウイーン大学では、メンデルは主に物理学を学びましたが、その時の指導教官はあのドップラー効果で名前を知られているドップラーでした。そして1853年にブリュンに戻ったメンデルは、工業学校で実験物理学を教えることになりました。後に修道院長になるまでこの仕事を続けたそうです。
メンデルがエンドウで遺伝の実験を始めることになった動機は、ワインの材料に使うブドウの品種改良が目的であったそうです。土地の農家の人々の相談を受けて、品種改良の理論的裏づけを得ようとしたのでしょう。そして、他にも多くの植物の品種改良を手がけるようにもなったようです。
1913年、日本の小石川植物園の三好氏がブルノの修道院を訪れました。そこで三好氏は、当時から保存されていたブドウの一枝を譲り受けて日本に持ち帰り小石川の植物園の庭に植えたそうです。現在も『メンデルのブドウ』として植えられています。ところが、第二次世界大戦中、本家のブドウは手荒く引き抜かれて全滅してしまいました。遺伝子説を唱えたメンデルは、ヒトの平等性を損なうものだとして否定された時期もあったのです。そして、小石川植物園に植えられていたブドウが1989年に再びチェコの南モラビアの実験農場に送られたのです。
私は、メンデルが冴えない生物学者で暇に任せてエンドウの交配実験を行っていたように昔聞かされた記憶があるのですが、それはどうやらまったく誤った認識だったようです。
当時、イギリスでは産業革命が進行し、物理学や化学に関する新しい知識がどんどん増大していました。こうした学問を通じて物質が分子や原子に還元され、その根源であることが理解され始めていました。そうした先端的な知識を吸収してふるさとに戻り、物理学や化学を教えることになったメンデルが、遺伝という現象も物質的なものに支配されているのではないかと考えたとしても不思議では無いように思います。
メンデルが著した『植物雑種の研究(岩波文庫)』では、遺伝という現象を考える際、漠然とした性質を相手にするのではなく、明確に定義できる『形質』を捉えて着目しなければならないことを説いていますが、こうした考え方は物理学を勉強したからこそ持てたものではないでしょうか。実験を開始するにあたっていくつかの特徴を形質と規定したメンデルは、最初にその形質に関する純系を得るべく何代かの自家交配を繰り返しました。当時育種学というものは既に確立されていたようで、自家交配を繰り返せば同じ形質に揃い、純系ができることが知られていました。メンデルは、ここから交雑実験を開始したのです。